マニュアル人間

「マニュアル人間」という言葉がある。マニュアルがない,あるいはマニュアルに書かれていない場合,主体的に考え状況を察知した行動を,とることができないような人物について使われるようである。だいたいにおいて,否定的なニュアンスがある。

例えば,ハンバーガー 50 個を注文する客に対して,「店内でお召し上がりですか,それともお持ち帰りですか」と確認するファーストフードの店員。50 個も注文する客がひとり「店内でお召し上がり」になるとは常識では考えにくい。「接客マニュアル」に書かれてある手順に機械的に従っていることがあまりに露骨に出てしまい,常識的な客からすると「バカかこいつ」というように受け取られてしまうことになる。そんな店員をあざ嗤うブログを私は読んだことがある。

私は「マニュアル人間」をダメな人格だとは少しも思わない。むしろ,逆。マニュアルをひたすら学びその実現の精度を上げようと努力する人を尊敬する。少しくらい気が利かなくともよい。というのも,自分の主体的行動を尊ぶにせよ機転が利くにせよ,マニュアルあるいは先人の知恵を定着させたものを軽んじて,自分勝手なことをなす輩 — たとえそれがたまに天才的なできだったにせよ — よりも,実際の仕事においては,私の個人的経験からして何倍も有用だからである。「有用」とは計画・設計が可能という意味だ。プロの基本的特質である。

ブログ主に「バカ」にされた件のファーストフード店員だって,大半の客には全うなサービスだと評価されているのである。50 個も注文するほうが極めて稀な事象であって,例外ケースで,首を傾げさせるおかしな対応にケチをつけるほうがどうかしていると私なんかは思う。親子丼の金しか払わないくせに,フランス料理のフルコースでも頼んだ気分になっていないか。それこそ「バカ」としか思われないのだ。

企業の品質管理というものは製品のごくわずかに不良が混入していることを前提と看做す。その不良率を一定範囲内に収めることが生産技術の骨子である。ファーストフードの品質管理者からみれば,ひとり 50 個の注文はその不良発現の許容範囲にある僅少事象なのかも知れないのである(そもそも,常識は別として,50 個の注文でも「店内でお召し上がり」がありえないと誰が断言できるだろうか)。それが僅少でなく経営に影響を与えると判断されれば,店員ではなくマニュアルが問題視され,改訂されるはずである。そうして,経営資源の許す範囲でサービス品質が向上してゆく。このような仕事の背景を抜きにしてこの店員を「マニュアル人間」とバカにしているほうが,仕事の質を属人的な「機転」にフォーカスすることで人に依存した仕事のムラを許容することにつながり,じつは進歩を生まないのだ。

いまのこのご時世,気が利かない,仕事のできない若者ばかりで困る,と嘆くオジサンも多いのではないだろうか(件のブログ主と同様に)。それはその若者が「マニュアル人間」だからではない。逆に,その若者がマニュアルを読みもせず,多寡の知れた己の経験・才能に頼むか自分勝手な思い込みで仕事をしているだけだからである。だいたいそんな愚痴をこぼすこのオジサン自身,きちんと若者を指導しているか怪しいものである。「仕事の技は先輩から盗むものだ」なんてカッコつけているに決まっている(「技は秘められたもの」などと己を神秘的に見せたがる,考えの古い寿司屋は,機械握りのクルクル寿司チェーン店によって間違いなく絶滅させられるはめになる)。

仕事で必要なのは天才ではない。マニュアルに書かれたことを必要なときに運用して確実に遂行できる人間である。普通の技術者なら3日かかる仕事を超絶技巧で10分でやってしまうウン万人にひとりの天才よりも,文書で習得した知識をもとにその仕事には3日かかると見積りができ,仕事の計画・設計ができ,3日で確実に目標品質でそれを果たせる者が必要である。仕事で大事なのは,期待・スリリングよりも確実さだからである。個性でうまく事をなす者よりも,実務の具体的経験から準拠すべき文書の問題点を指摘・改善して組織に伝えることのできる者が必要である。この場合,そういう人間を育てることが出来るからである。それが「技術」というものである(世の中には「技術」を「超絶技巧」と勘違いしている者がいるから質が悪い)。「技術」は退屈極まりないものなのだ。

「なぜか機転の利く仕事のできる奴」よりも「書かれた通りに確実にやる奴」のほうが絶対にありがたい。たまに天才的なひらめきで凄い仕事を100に1回やってのける者より,一生懸命マニュアルを勉強しつつもなかなか身に付かないが,100に99回同じ成果をあげ,確実に成長するマニュアル人間のほうが,社会人らしくて私は大好きである。仕事は芸術ではないのだ。