アニメ,マンガの不道徳性について

アマゾン,販売自粛 『ジュニアアイドル』過激作品』(産経新聞配信 5.18 付)という記事を見た。

児童ポルノ風アニメやレイプ・ゲームなど販売サイドで自粛する動きはいまにはじまったわけではない。一般に,日本のアニメやマンガ,ゲームは少女とエロス,暴力が結合した表現に溢れており,とくに海外では日本のエロティックなサブカルチャーの不道徳性を手厳しく非難する意見が支配的である。ここからポルノグラフィーを規制すべきという意見が出て来る。

その批判の多くは,性的・暴力的表現がレイプなどの性犯罪を助長するというものではないだろうか。一見妥当性をもっているかにみえるこの見解は,しかし,考えてみればその理屈には根拠がない。イヤらしい写真を見てイヤらしい気分になるかどうか,さらにイヤらしい気分になったとしてイヤらしい犯罪を犯すかどうか,原因と結果の論理の線は出て来そうもない。イヤらしいものを作ったり,それで商売をしたり,好んで鑑賞したりする者はイヤらしい恥ずべき人間だという考え方も,これとまったく同じである。

性的・暴力的表現はレイプなどの性犯罪を助長するのか? 端的にいえばそれは否である。日本はこうした「危険な」ポルノグラフィーが海外と比較にならないくらい一般に浸透しているのにもかかわらず,日本の性犯罪発生率(ひいては犯罪率一般)は他の国々と比較して著しく低いことが統計的にわかっている。統計というものは個別の性質を解明しなくても,全体の傾向を科学的に説明するものであり,ポルノグラフィーと性犯罪との因果関係をありありと否定しているわけである。要するに犯罪の因子が本質的には別のところにあることを示唆しているのである。ひとりでもポルノグラフィーの影響を受けて犯罪を犯した輩がいれば,やはり「危険」として規制すべきと主張する,頭の悪い厳格主義者がいる。ひとりでも餅で喉を詰まらせて死ぬ人がいれば餅の製造・販売を禁止すべきだろうか?

だいたい,日本のサブカルチャーを語るとき,なぜその不道徳を危険視するのか。それは少年少女が好んで享受するメディアであるからである。確かに他人の言動に動かされ易い子供には積極的に与えるのは問題があるかも知れない。教育上より優先すべき事項がある。ならば「18禁」のように年齢制限を設ければよいだけである。「規制」を叫ぶひとは,根も葉もない犯罪因子に拘って「作ることそのもの」,「販売することそのもの」を否定しているのである。

しかし,犯罪の原因・動機の本質をはずした規制は,周縁的性質のものを本質だと見誤らせるだけで,一種の魔女狩りを生むだけである。芸術一般によって齎される想像的情念と現実の行動様式とは — 少なくとも成熟した人間にとっては — 異なるものである。頭のなかで想像することと,実際に行動することとの間には,どれだけ強調してもし過ぎることのない大きな懸隔がある。このことがまるでわかっていない糞真面目人間があまりに多すぎて,私は嘆かわしい。一方でそういう人たちは,ポルノが世界を滅ぼすと息巻いているのに,イラク,アフガニスタンでどんな非道が行われていようとも何の行動も起こさないでいられたりする。想像力の活動を現実的行動に直接的に結びつける考え方は,その主体の芸術受容レベルの低さを示すばかりである。それは,表現活動を疎外するだけでなく,犯罪抑止にも利するところがない。

アニメ・マンガの性・暴力表現が「不快」ならば,その「不快」を齎す表現を批判すればよいのだ。見たくなければ見なければよいのだ。お行儀の悪いものから眼を背けてお行儀よくしておればよい。エッチな映像の悪影響を心配するなら,それを子供には見せなければよいのだ。私はエロティックな映像が挿入されるテレビ番組(例えば『特命係長 只野仁』)は子供には観せない。「お前たちはガキだから観せない。お父さんは,想像と行動をきちんとわけられる大人だから,エッチなものを観ていいのだ」と威張るわけである。

法制度に訴え,国家権力によって,アニメ・マンガの「危険な」表現行為を止めさせる必要はない。規制・禁止は,イヤらしいだけで価値のない作品を創造の段階で潰すことができるかも知れないが,想像力を豊かにしてくれる素晴らしい「イヤらしさ」をも抹殺してしまうはずである。性犯罪も減らないだろう。規制だらけの米国製の,「萌えない」アニメを見るがよい。なのに高い,米国の性犯罪率を確かめるがよい。