今日 4 月 5 日,北朝鮮が人工衛星と称するミサイルを打ち上げた。この「衛星」は軌道上で金正日を讃える歌を世界に向けて 470 MHz で発信しているのだそうである。この二日間,固唾をのんで発射を見守ったひとも多いと思う。「誤探知」のどっちらけも入って憤りの矛先が分散された分,今日の発射に対して少し冷静になった。
いずれにせよ,ほぼ予定通りの航跡(軌道に乗ったかは別として),予定通りの迎撃回避で,とりあえず最悪の事態が免れたのでひと安心。発射後の政府声明もほぼ予想通りのもので,これから国連での議論に注力するようである。これでよいと思う。予定通り,想定の範囲内,ということこそ国民がいちばん安心するのだから。ネットのこの関係の書き込みを見ていると,「甘い,北朝鮮を空爆しろ,報復せよ」みたいな青臭い論調が支配的であるけれども,働く一般の市民にとってはこの問題が何事もなかったかのように収束するのがいちばんである。
あれだけ中止を求められていたにもかかわらずミサイルを発射した北朝鮮は,国連の議論のなかで責任追求なり,制裁なりを受ければよい。それにしても,国際社会を敵に廻してでもパワーでのし上がろうとするこの国,第二次大戦前のどこかの国とそっくりでないか。他国を無視した核の平和的・軍事的利用,弾道ミサイルの開発と輸出など,平和を指向する人々にとって「悪の枢軸」に相応しい外貌を示して余りある。しかし,北朝鮮からすれば,これは米,英,仏,露,中などの大国がかつて国際世論・国際法を無視してやってきたことであって,なんで同じことを俺たちがやって国益を増すことがいけないのか,国権として平等であるのが世界の秩序ではないか,ということではないだろうか。小国であるからその大国特有の「悪」がいよいよ歪んで目立つだけなのだ。そういう大国の論理を使いつつ,なおかつ — どこかの国と違って軍事介入など,手を血で染めるような愚行を絶対にせずに — 表面的「強硬姿勢」だけの冷静な外交を進めているから,米,中,露も具体的な行動を起こせないし,起こす理由も見出せないのである。上に向かってツバを吐くと自分に降り掛かる。
「なんだかんだ言っても結局は力の論理」と「理性的な恒久平和は実現可能という理想」との拮抗する現代において,北朝鮮は脇目も振らずに前者を国是としているともいえる。超大国は自分と同じ行動論理を認め,忸怩として北朝鮮の思うつぼにハマっている。日本は後者の代表格なのにもかかわらず,北朝鮮の大国ぶりの冷静な外交力の前には,なんとも頼りない。それでも私は日本国民でよかったと思う。最近の日本の世論は,ことあるごとに平和ボケを嗤う。平和ボケでよいではないか。北朝鮮はいずれ第二次大戦前のどこかの国と同じ轍を往くだろう,それよりはマシだと思うからである。