小川和佑『桜の文学史』

今年,2009 年の二月は異様に暖かい日があったかと思うと,また寒さがぶり返すうちにも,三月に入って寒桜が咲き,寒さも緩んで春めいてきた。今日,福岡で例年よりも 10 日以上早くソメイヨシノが開花したという。川崎の丸善をぶらついていて,新書コーナーの平積みに『桜の文学史』を見つけた。

小説・詩の楽しみは「行間」を嗅ぎながらテクストを辿るところにある。文学研究家,批評家は,さらに,作品と作品,時代と時代などの相互の「間」を,その独自の洞察や論理,想像力で埋めてくれる。それによって私たち一般人は,ときに,文化の特性を認め,自分自身の位置を自覚することができる。そこに彼らの仕事の尊い意義がある。古典から現代に至る日本文学作品に現れた桜観について語る本書は,そのような価値を確かに備えたモノグラフである。

桜のイメージは,もちろん時代,個人によって違う。私にとって桜とは,何かの腐りはじめ・春の淫靡を連想させる花である。本書によれば,この感覚は朔太郎あたりの近代的憂愁に認められる特徴であり,日本人古来の桜観というよりもむしろ,近代の一表象でしかない。高校時代に萩原朔太郎や三好達治の詩に浪漫的な感傷を抱いたことにこれは由来するのだと,本書の教えで私は自覚した。

同様に小川は,桜花の散る様に士の潔い美しい死を見るという観念も,実は近代日本の軍国思想が齎した「奇形」でしかないという。古来日本人の桜観は,なによりもまず女性的な生の美しさであって,死の臭気はないと著者は説く。でも,このように桜花の観念連合がいかに多様であろうと,桜は日本人にとって特別な花であり続けたわけだ。さまざまの事思ひだす桜かな(芭蕉)。

本書は,かなり主観的な物言いで気になるところがないわけではない。「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる! この梶井基次郎の一行ほど昭和文学を震撼させた言葉は見当たらない」(p. 9)。いったいどんな文献的証拠があって「昭和文学を震撼させた」とまで断言するのか。少し筆勢を抑えたほうがよくはないか?

しかし,小川は作品と作品,時代と時代との間を,豊かな詩的想像力によって深く分け入り,そこから日本文学の豊穣な桜観を組立てて行こうとする。そういう極めて果敢な論理に依っているのである。実証性において少し危ういが,確かな詩眼に支えられた誠実で美しい文章に,私は感銘を受けた。辻井喬の桜詩を引用したのちに現代詩人の桜観について総括した小川の文章は,それ自体が美しい。

 さくらは死の翳りを見せて華麗な詩的映像を喚起せずにはおかない。そして,究極にはその桜美もまた虚無に包括されてしまっている。その心性は,どこかでこの国の宗教思想にも似ている。
 夜空に舞い散るさくら。水面に散りかかり,流れ去るさくら。すべてが美の極みで無韻の虚空に拡散する桜観は,萩原朔太郎のエロスのさくらでもなく,坂口安吾の土俗の妖異のさくらでも審美の定家のさくらでもない。伝統詩の哀傷を越えたところにこれらの詩人たちの桜観がある。
小川和佑『桜の文学史』文春新書, 2005 年, p. 252.