進路指導

12 月 6 日,娘の中学校で進路指導説明があった。公開授業期間中で授業参観も予定されていたのだが,私が行った時間はたまたま全体学活 (学級活動 — ホームルーム) にあたってしまい,授業風景は見られなかった。引き続き保護者への進路指導説明となった。

内申書の記述内容や志望校の決定をめぐる説明があった。受験産業がはじき出した偏差値ではなく,校風や進路希望をよく見,考えて子供の将来に相応しい志望校を決めるべきとの話があった。まあそんなものだろう。

進路指導の先生の話は面白かった。公立・私立の複数の学校を併願する際,合格の可能性において安全な学校を「滑り止め」などと言ってはならない,あくまで「第二志望」と位置づけなさい。「滑り止め」などという意識でいると第一志望で落第したときの精神的痛手が大きい,と言う。本質は同じじゃないか。同じことを違った言い方をして何かが変わると思っているのは,官僚的で嫌ですね。

受けようと思えば私立は何校でも受験できる。先生曰く「自分の身の丈にあった志望校以外に背伸びをして難関校にも挑戦してみたい思いはわかるけれども,試験を受けることそのものが過度な集中力と体力とを要求するし,中学生というデリケートな年頃の子供はたとえダメだとわかっている難関校でも落ちたらやはり精神的痛手を感じ,それが本命の試験に悪い影響を与える。だから受験校はよく考えて絞るべき」。なかなか経験豊かな指摘で参考になった。

少子化やら子供の総体的な学力低下やらでか,いまや高等学校の質・レベルが数年で様変わりするらしい。合格の可能性の予測が難しくなったという。でも私はそこにはウソがあると思った。もしそれが真実だとしたら,各学校は校風や学力の維持・向上についてなんら意思をもった運用努力をしておらず,究極においてどこに行っても同じだというのと変わらないではないか。なのに校風や進路希望で志望校を決めるべきだというのは矛盾ではないか。

世の中には学校の序列付けが厳然としてあり,信頼性は別として学校の偏差値ランキングがまかり通っている。やはり学校の進路指導の先生は現実をよく観察して,生徒の志望校が妥当なのか非現実的なのかどうか,データをもとにきちんと見極めをしてやるべきではないかと思う。私のころははっきり先生が宣言してくれた。そこには受験する前から極め付けられる悔しさがあったわけだが,少なくとも先生の生徒に対する評価責任を負う気合いが感じられた。「お前の成績じゃあここから下しかダメ」— 迷える子羊にはハッキリそう言ってあげたほうがよいと思う。

進路指導もいまは自由にして無責任な時代なのだとの印象を強くした。先生曰く「最終的には自己責任です」。子供の進路が望むとおりになるかどうかは,生徒とその親自身が責任を負うべきというのは正しい,当然である。しかし,ならば,学区全体における子供の成績などの情報をきちんと保護者に提示するべきではないだろうか。そうすれば親でも「お前なあ,こんな成績のままじゃこの学校に入るのはムリだよ。ココで我慢して頑張ろう」などと言ってあげられるのである。情報提供もしないで自分で考えなさいとはどういうこと?