佐藤優『自壊する帝国』

ちょうど一年前,米原万里の『オリガ・モリソヴナの反語法』について,このような本が日本人によって書かれたことは奇跡だと思うと書いた。佐藤優の『自壊する帝国』についても,私はまさに同じ感慨にいま浸っている。いずれも日本人という媒介を通して結実した,20 世紀ロシアのとてつもないドキュメントなのである。米原はもともと通訳者であった。佐藤はなによりもまず外交官である (裁判で係争中の本人はいまだに休職の身であるとしている)。いずれも文学者としては徒弟時代を経ていないにもかかわらず,彼らの書物は扱う世界そのもののもつ非日常性でもって一級の文学作品に「仕上がってしまった」。ロシア通にはこのように,破格のパーソナリティがときおり突然変異的に発生する。それはまるでロシアというスチヒヤ(自然力)・触媒に触れ,日本の開かれた知性が恐るべき化学反応を起こしたかのように私には思われる。

『自壊する帝国』は 1991 年の 8 月から 12 月のソヴィエト末期を描いたノンフィクションである。この作品がそのあたりにあるノンフィクションと決定的に違う文学性はどこから来るのか。それは本書が,取材,インタビュー,資料を著者なりに収集・再構成・論証することによって成った「ジャーナリズム」なのではまったくなく,職務における人間的交感を通じて対話から得られた生の言葉「だけ」で,— 自己の生の蓄積と,現在まさに突き進みつつある現実の過程で見えるもの,聞こえるもの,感じられるもの,味わわれるもの,臭うものと「だけ」で — 偉大なる国の歴史的転換期 — ソヴィエトの崩壊とそれにかかわったロシア人 — を描き切ったところにある。この作品の本質は,なぜソ連は自壊したのかという歴史的過程を述べたことにあるとは,私には思われない。激動の時代に生きるロシア人そのものが主眼だろう。その主人公達の多くはまだ生々しくロシアに生きていて,これからもまた時代を旋回させる可能性があるかも知れない,日本人はこれからもそういう彼らと対等に付き合わなくてはならない,そういう厳しい読後感を残す。暢気でセンチメンタルな軍人による『日本は侵略国家であったのか』などという浅はかな政治論文なんかに注意を逸らされている場合ではない,ということが骨身に沁みてわかるのだ。

モスクワ大学哲学科でサーシャが反ソ的な論説を打つくだりは非常に興味深い。そのあとすかさず教授女史が公式的立場から彼を怒鳴りつけるわけだが,実は彼女が立場上批判しているだけで,彼の思想的個性を影で支えているという。禁止された西欧思想を,形だけマルクス・レーニン主義的公式見解で批判しながら,詳細に紹介する論文。その読み方に通暁した知識人 — このような二重構造は R. ヒングリーの『19 世紀ロシアの作家と社会』が教えてくれた 19 世紀のロシアのインテリゲンツィアの伝統そのものである。反体制的人物が精神病院送りになる話はこれまた痛快である:

そこで,『こんなに素晴らしいソ連体制を誹謗中傷する『収容所群島』に惹きつけられるのはお前のアタマがおかしいからだ』という理由をつけて,KGBはスラーバを精神病院送りにする。... 精神病院にはスラーバと同じような患者が何人もいた。ただし,スラーバのような文学青年ではなく,サハロフ博士に近い人権活動家やイスラエルへの出国を要求するユダヤ人だった。スラーバは精神病院に収容されたおかげで,本物の反ソ活動家になったのだ。
佐藤優『自壊する帝国』新潮社,2008 年,p. 223-4。

病院に不用意に子供を連れていってはいけない。病気でない者も病気になってしまうのである。

佐藤がアントニオ猪木参議院議員のアテンドをする話も実に面白かった。モハメッド・アリと戦った猪木がロシアでも尊敬されていて,共産党幹部から丁重に遇されるなんて意外であった。猪木(と呼び捨てにしてしまうけど)がソ連側の態度に頭に来て,佐藤と二人でロシア人たちを呑み負かすところは猪木外交の武勇伝と言ってよい。「よくもナメたまねをしてくれたな。本物の日本人と本物のロシア人の友好のために乾杯」(同書,p. 348)— こう言って 200cc のウォッカを一気飲みする猪木の性格にほれぼれとしてしまったのである。

この作品はロシア人イメージの誤解を解く意味でも光るものがある。ロシア人というと酒びたりでろくに働かないという確固としたイメージができあがっているけれども,佐藤はロシア人は稀にみるまでに勤勉であると断言する:

ソ連崩壊後,一九九二年のロシアのインフレ率は年二五〇〇%を超えた。産業は破壊され,市民の貯金は意味をなさなくなった。ハイパー・インフレを抑えるためにロシア政府は極端な緊縮財政を行う。その結果,公務員を含め,給与が二ヶ月から半年も遅配することが一九九四年頃まで常態化した。日本人ならば,給与を三ヶ月も払わないような職場ならば,まず,出勤しなくなるであろう。このような状態が半年続けば,東京で騒擾事件が起きてもおかしくない。当時,ロシア人が受けていた給与は,定期に支払われていても,それだけでは生活していくことができない低水準の給与だ。それでもロシア人は職場にきちんと通った。そして,週末は別荘(ダーチャ)で,ジャガイモやキュウリ,トマトを育てて糊口を凌いでいたのである。その様子を見て,ロシア人は実に勤勉だと思った。
同書,p. 570。

日本人はことあるごとに勤勉であるともてはやされ,事実そのとおりであると思う。しかし無償の仕事に長期にわたって勤しむことができるかどうか。

もうひとつ,マンガのようなロシア的世界の素描。共産党右派によるクーデター未遂でモスクワが大混乱した際,佐藤が白タク(非合法タクシー)で大使館に急行しようとする場面がある。ここでこの白タクは「旦那,任せとき!」とばかりに,身動きできないほど道路が混雑するなかで,いきなり覆面パトカーのサイレンを取り付け,揚々と道路を突っ走る。これと同じように救急車を装って混雑路をごぼう抜きするシーンが『オリガ・モリソヴナの反語法』にもあった。こうした要素が,リアリズムでありながらマンガのような空想的世界を地で行くロシアの面白さを支えているのである。

最期にこの本でやっぱりいちばん感銘を受けるのはロシアのインテリの知力の凄まじさである。一日に 700 〜 1000 頁の学術書を読みこなすサーシャや,ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』を引用して己の信念を語るイリイン・ロシア共産党第二書記。彼らは知的にも優れているが,人間的にも腹の座った誠実な人物である。

それに比べると日本の政治家・官僚たちの矮小さはどうであろう。日本は佐藤優を犯罪者に仕立て上げてしまった。この件については佐藤の『国家の罠』に詳しいので,こちらもぜひ読んで欲しい。おかげで対露外交における日本の国益がいかばかり失われたことか。逆に,本書で述べられているロシアの友人たちがロシア国会議員の署名を集めることをしてでも,逮捕された佐藤を救おうとしたエピソードが述べられている。どうしてかくも優秀な人材をパージすることに日本人自身がやっきになるのか,現代日本の劇場・衆愚政治に呆れてしまうではないか。出る杭は打たれる? 米原万里もことあるごとに述べていることとして,日本人,欧米人は才能を見いだすと嫉妬心からつぶしにかかるのに対し,ロシア人は我がことのように他人の才能を喜び誇りとするそうである。佐藤優をめぐるロシア人と日本人の振る舞いの温度差はそのへんに由来するのか。佐藤は述べている:「おそらく日本人の大部分は,日本が崩壊するはずはないと思っているだろうが,国家というのはある日,突然に崩壊することもあるのだ」。これは日本人への警告である。そして最近の日本の情勢と日本人の習性を思うと,気味の悪いくらいリアリティがあると感じるのは私だけだろうか。

それでも佐藤が外務省からドロップアウトさせられたおかげで,このような素晴らしい人間ドキュメンタリーをわれわれは得たわけである。このような本が日本人によって書かれたことは奇跡だと思う。佐藤優にはこれからも健筆を揮って欲しいと切に願う(どうも「美しい日本」が好きらしいのは別として)。