マリヤ・ユージナのバッハ

『羊たちの沈黙』でレクター博士がバッハに酔いしれているさまを読んで,大いなる共感とともにバッハのレコードを掛ける。ロシアの女流ピアニスト・マリヤ・ユージナ Мария Юдина(1899-1970) の弾くゴールドベルク変奏曲。バッハはなんといってもグレン・グールドだと思っている若いひとには,ぜひこれも聴いてみてほしい。独ソ戦争・大粛正時代を生き抜いた力強いバッハがここにある。

マリヤ・ユージナはショスタコーヴィチ,プロコフィエフ,ストラヴィンスキイといった当代の作曲家のほか,マンデリシュターム,パステルナークなどの文学者・詩人とも深い関わりをもっていた。彼女はソヴィエトでは禁止されていた西側の現代音楽,ウェーベルンやベルク,バルトーク,クルシェネク,ヒンデミット,ストラヴィンスキイ,メシアンのピアノ曲を演奏した。ユージナは演奏会でアンコールに応えて — 当時ソヴィエト体制に禁じられていた — パステルナークの詩を朗読したために,演奏活動を五年間禁止された。パステルナークは彼女の自宅ではじめて『ドクトル・ジバゴ』の朗読をしたとされている。

ソヴィエトでは自殺行為に等しいこうした行動とは裏腹に,彼女の演奏はスターリンの気に入るところだったようである。それゆえに生き延びることができたともいえる。ユージナ独奏によるモーツァルト・ピアノ協奏曲第 23 番 K. 488 の演奏をラジオで聴いたスターリンがライブ演奏とは知らずにそのレコードを所望したところ,慌てた側近はその夜ユージナ,指揮者とオーケストラ楽団員を緊急召集し,夜半に録音を行い,ただ 1 枚だけのレコードを製作して,翌朝この独裁者の別荘に届けたというエピソードが伝えられている (このレコードの原盤は幸い現存し,その CD が入手可能のようである。また Maria Yudina - Official Website で聴くことができる)。

ことほどさようにマリヤ・ユージナには伝説が絶えない。ソロモン・ヴォルコフ編『ショスタコーヴィチの証言』やナジェージダ・マンデリシュターム(詩人の夫人)『回想録』(邦訳『流刑の詩人 マンデリシュターム』新潮社,1980 年)には,彼女の数々の武勇伝というか,奇行がしるされている。

バッハはベートーヴェン,シューベルトとともにユージナのもっとも得意とする作曲家であった。その演奏スタイルは「あらゆるものをシューベルト風に弾く」とも評されているけれども,バッハ演奏に見られるポリフォニックな構造感覚はグールドに勝るとも劣らないと私は思う。これが女流かと思わせる腕っ節の勁さ。この女傑ピアニストによるゴールドベルク変奏曲を聴くと,芸術にも,知性にも,男女の区別はないということがひしひしとわかる。

20世紀の偉大なるピアニストたち~マリア・ユージナ
マリヤ・ユージナ (Pf)
マーキュリー・ミュージックエンタテインメント (1999-03-17)
流刑の詩人・マンデリシュターム (1980年)
ナジェージダ・マンデリシュターム
木村浩・川崎隆司 訳
新潮社 (1980年)