否定表現について

「忙しない」,「如才のない」,「ぞっとしないね」などという言葉を耳にすると,言葉というのは面白いと思う。いずれも「忙しい」,「如才のある」,「ぞっとした」という意味であって,まさに否定表現が肯定的意味を強めていると思われる。また,お笑いでも,聞かれてもいないのに相方が「君の財布をポケットに入れたなんて言ってません」というようなセリフを唐突に繰り出して,財布を自分の懐に隠したことを逆に露にしてしまい笑いをとるようなボケがある。否定することで却って主体の向かう焦点を指し示す例であろう。

アレクサンドル・プーシキンの物語詩『盗賊の兄弟』の冒頭に次のような詩行がある。プーシキンも,否定表現によって対象がまさに否定されているものと同等であることを強調する特殊な比喩手法・パラレリズムに長けていた。

 腐れ行く亡骸の山に,
集まって来たのは,からすのむれではない。
夜,ヴォルガの岸の焚火のまわりに,
向こう見ずどもの徒党が集まったのだ。
川端香男里訳,プーシキン全集 巻二,河出書房新社,昭和 56 年版,p. 341。

堀切実はその『表現としての俳諧』(岩波現代文庫 G79,2002 年) で与謝蕪村の否定表現を論じ,まさに否定表現のもたらす主体的詩法を明らかにしている。

... 「否定」とは,本来,表現の世界にのみあり得るもので,決して対象の世界そのものにあるわけのものではない。言いかえれば,「否定」は結局,それを表現する主体の判断にかかわるものであり,対象の側に肯定的事実とか否定的事実とかいうものがあるわけではない。極端な場合,目前に青い山をみても,「青くない」と表現することさえ可能である。従って,否定表現において重要なのは,そうした主体側のエネルギーそのものなのである。否定のエネルギーの集積が,詩心をも尖鋭化してゆくのである。
堀切実,前掲書 p. 267。

芭蕉・蕪村の一級の読み手による鋭い指摘である。