大相撲大麻疑惑・『大いなる幻影』・『チャップリン自伝』

ロシア人力士の大麻疑惑で角界が大騒ぎである。これまで八百長疑惑,シゴキ殺人疑惑,朝青龍サボリ問題などが立て続けに世に出ていて,相撲協会にとって荒波が収まらない。

三人のロシア人力士はクビになり相撲界から追放された。若ノ鵬関以外の二人は疑惑を否定しているが,ドーピング検査結果からして相当黒に近い (大麻吸引がドーピング検査で明らかにできるのかよく分りませんが)。不法所持で逮捕された若ノ鵬関は年齢上の理由で不起訴処分となり,マスコミを前にして自分の過ちを詫びながら,「それはそれ,これはこれ」というもっともな立場に立ってもういちど土俵に立たせてほしいと哀願した。実力がものを言うプロの世界なのだから,「前科者」であっても罪を償ったからには,フェアでかつ強ければファイトさせてもよい,というのが世界一般の考え方ではないかと私は思う。ましてや若ノ鵬関は結果的に不起訴なのだから「犯罪者」ではない。モンゴル人の横綱白鵬関などもこの考え方に立って,若ノ鵬関の復帰を擁護していた。しかし,これは集団主義的潔癖「症」に冒された日本人には残念ながら通用しない。部員の不祥事でチーム全体が甲子園出場を辞退するのが美しいとされるへんな国なのだ。この三人は,スポーツというより民族的儀式といったほうが適切な,ファイターにとって絶望的な相撲という世界はこの際諦めて,別の道 (やりたいならプロレス界に来い!とアントニオ猪木が言っているそうではないか。捨てる神あれば拾う神あり) をゆけばよい。

相撲にはドーピング検査がないそうである。全力士に対してロシア人力士と同等の検査を実施したら,実はもっと「面白い」ことが起こったかも知れない。今回これだけ大問題になっている以上,角界の大麻汚染,もとより不正薬物使用がこのロシア人力士に限定的であったことを — 要するに過ちは三人だけだったことを — 示すには,相撲協会は全力士の検査をすべきではないだろうか。なぜ問題力士だけが検査され,さらに刑事訴追されてもいないのに協会を追われなければならないのか。

問題発覚の当事者と責任者の排除でことを終わらせようとする協会の態度。われわれメーカーの設計者なら,問題そのものを訂正するだけでなく,「類似見直し」で同様の問題が隠れていないかを徹底的に再調査し,その動機的要因を遡って根本原因を突き止めこれをつぶすことで「再発防止策」とする。根本的問題に対して手を打たないとまた起こるのが目に見えているからである。「間違いは人間誰しもあることで許されるが,同じ間違いを二度犯すのは許されない」という思想があるからである。こうした方法がメーカー必須の不良対応手順となっている。顧客も事情を承知していて,これを怠ることを許してくれないし,だからこそメーカーと顧客の間に信頼関係ができるのである。相撲協会の態度は,発覚したバグだけを訂正しそれを作ったプログラム担当者をクビにし,ついでにその上長もクビにして「誠意を示す」という,われわれにとって絶対してはならない安易なごまかし手段とまったく同じなのである。だって,三人以外には薬物使用者がいないことも,理事長の首のすげ替えで体質が変わることも,まったく証明されないではないか。まだまだ問題力士が掘り出されますゾ。

しかしクビにするだけで「類似見直し」も「再発防止策」もない措置でなんとなく事態が収拾しつつあるのはなぜなのか。「協会の毅然たる態度に好感がもてる」などと言い出すバカもいる。それは,相撲界をよくするなんて,所詮どうでもよいことだからである。「国技」の体面だけが心配だからである。この大麻疑惑について,「国技の品格,礼節がなっとらん」,「神聖な土俵を穢す」,「国技の威信を回復しろ」などの「国技」としての側面ばかりがあげつらわれているではないか。これらの非難を聞いていると,相撲とは歌舞伎などと同じ芸能・見せ物か,あるいは神社の祭祀みたいなものなのだと思ってしまう。もうひとつ,この問題の過程を見ていると,外国人力士に対する拭いがたい差別意識も垣間見える。「早く (ロシアに) 強制送還しろ」との書き込みもネットで見た。例えばここ

スポーツとしての相撲の素晴らしさの本質は,国技の品格などということよりも,もっと別なところにあると私は思うんだけど。どんな形にせよ足裏以外で土がついたら負けという潔いルール,裸の巨体に相応しい力強さ,信じられない敏捷さ,狭い円内での多様な技のダイナミズム,小よく大を制する意外性などなど...。

力強く速く美しい相撲を取るがハレンチ生活を噂される力士と,腰砕けで弱っちいが男前で品行方正な力士と,さあどちらがよい力士? わくわくさせる素晴らしい授業をする不倫教師と,教科書棒読みの品行方正教師,さあどちらがよい教師? 集団全体の体面を重視する日本人はまず間違いなく後者を支持するのではなかろうか。「これは極端な選択肢だ」と言うのは本質というものを考えないひとである。今回の角界スキャンダルへの意見をネットで読むにつけ,これと同様の本質を見誤った偽善的ゴタクだらけなのにウンザリさせられた。例えばやっぱりここ。だから相撲界は脇が甘くあら探しばかりされるようになったのである。だから子供は学校で先生を無視し,予備校の名物講師のもとに走るんである。おっとこれは飛躍か。

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妻とフランス映画『大いなる幻影』を観た。1937 年,ジャン・ルノワール監督作品。フランスのしゃれ者とは一線を画す男臭さを発散するジャン・ギャバン主演の名作である。世界史を学ぶとフランスとドイツとは伝統的に仲の悪い隣国であったことが分る。しかしこの映画では,第一次大戦でヨーロッパが崩壊してゆく様を体験したものが,国家という枠組みを越えた共通点,零落してゆく貴族 (ボアルデュ大尉とラウフェンシュタイン司令官),労働者 (マレシャル中尉,未亡人エルザ),資本家 (ローゼンタール) などの階級を越えた人間的関わりにこそ新しい道を見いだそうとしているかのようである。

この映画が製作されたころはナチスが台頭し,もはやこの作品に見られるような紳士的なドイツをだれもイメージできなくなっていたに違いない。また共産主義革命で当時世界的に孤立していたロシア人の捕虜も人間的に描かれている。反独・反共世論が一世を風靡していたなかでこのような,国家を越えた個人を見つめることのできる第一級の映画を製作したフランス人はやっぱり凄いと思った。

大いなる幻影
ファーストトレーディング (2006-12-14)
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なんとはなしに『チャップリン自伝』(新潮文庫, 1981) を読んだ。学生時代,チャップリンの『キッド』,『モダン・タイムス』,『独裁者』などの名作を観て,その笑いと憂愁に感動した。いまだになにものにも代え難いと思い入れの強いファンが多いはずである。この本は彼の貧しい少年時代から,1916 年にハリウッドのミューチュアル・フィルム社に迎えられ,ようやくアメリカで成功したころまでを収めている。この時代以降の伝記は,どん底から這い上がったそれ以前に比べ成功物語としてのインパクトに欠けるからか,文庫版では割愛されている。

俳優というものがその人気によって,上流階級クラスの豊かな生活と,食うもの着るものにも困る最低の貧民窟生活との間を一挙に移ろう仕事であるという残酷。チャップリンは後者の境遇にあって,女優だった美しい母と四歳上の異父兄を支えにして,小学生くらいの年頃から様々な職業を経験しながら,お笑い芸を学び成長する。少年が己の才能を磨きアメリカンドリームを体現するようにのし上がってゆく様子は痛快でもあり,孤独な切なさを覚えさせもする。ひとことでこの自伝を評するとすれば,「ディッケンズを読んだときのような感動」だと思う。

チャップリンの優しさの原点ともいえる部分を,ちょっと長いけど,引用しておく。

このころ,あるちょっとした事件があったのをおぼえている。というのは,通りのはずれに屠畜場があり,羊たちはわたしたちの家の前を通って引かれてゆくのである。あるときのことだが,そのうちの一頭が逃げだし,通りを駆けまわって見物人たちを大喜びさせた。つかまえようとするもの,つまずいて転ぶもの,すっかり,通りは大騒ぎだった。とにかく羊は狂ったように逃げまわる,跳びはねる。わたしは面白くて笑ってばかりいた。なんとも滑稽な光景だった。だが,やがてつかまって,屠畜場へ連れもどされてしまうと,突然,クローズ・アップされてきたのは,むしろその悲劇的な現実であった。わたしは家へ駆けてかえると,泣きながら母に訴えた。「あの羊,みんな殺されるよ! 殺されるよ!」あの春の午後の冷酷な現実,そしてそれとはうらはらなドタバタ喜劇,それは長くわたしの記憶にのこった。そしていまにして考えると,このエピソードこそが,将来わたしの映画の基調 — つまり悲劇的なものと喜劇的なものとの結合というあれになったのではないだろうか。
チャールズ・チャップリン『チャップリン自伝 — 若き日々』新潮文庫,1981, p. 72。
 

チャップリンは無類の女好きで,不倫スキャンダルで相当叩かれたようである。レッドパージで米国から追放されさえした。でも,—「国技」相撲界にまつわる潔癖症とは異なり,— その面白い芸術はやっぱり至高・不朽の価値を万人に認められるところとなった。そう,あんな素晴らしい笑いとペーソスでたくさんのひとに人生を教えてくれたのだから,ちょっとした個人的欠陥などはどうでもよいのだ。また,たくさんの子供,孫に恵まれ,その名声だけに依らず幸福な晩年だったのだろうと思う。ちなみに,彼は日本人の使用人を重用していたことでも知られ,戦前から何度も来日し,日本人にとっても特別な親日家・大俳優だった。「チャップリンのマネージャは日本人だった」というのがテレビ番組『トリビアの泉』で紹介されたそうである。

チャップリン自伝―若き日々 (新潮文庫)


 
チャールズ・チャップリン
中野好夫 訳
新潮社