書店をぶらついていたら文庫本の平積みに堂場瞬一の作品がたくさん並べてあった。帯には「寝不足書店員続出!?」なるコピー。批評家や職業的書評家よりも,編集者,本屋が勧める作品には本当に楽しめるものがある。『このミステリーが面白い』などもこうした本好き無名氏たちの無私の批評眼に支えられていて,参考になる。というわけで,これまで知ることのなかった堂場瞬一という作家の,シリーズものの一冊『破弾 — 刑事・鳴沢了』(中公文庫, 2005) を購入した。500 頁に及ぶ長編であるが,結構楽しませてもらいすぐに読了した。帯のコピーが唆すほどの「これは!」という作品ではなかったが,私はいまの日本を担う世代への作者の思いに感銘を受けた。
作者・堂場瞬一は 1963 年生まれで私とほぼ同世代である。1960 年代から 1970 年代前半にかけて盛んだった学生運動を生きてきた世代に対する見方という点で,私と共通する部分が感じられた。70 年代初頭,小学生だった私は,内部分裂の果てに凄惨な内ゲバ事件で殺し合う学生たちの姿をニュースなどで見て,彼らがただの愚連隊にしか見えなかった。そういう学生運動に身を投じた若者が,大学を卒業するといきなり生活人になって,企業の資本主義的利潤闘争に溶け込んでしまうことも,信じられなかった。いまだになんの共感も湧いて来ない。まったくの世代断絶,理解不能なのである。作品は過去の内ゲバ殺人が明るみに出ることを怖れたかつての学生運動家たちによる揉み消し犯罪を扱っているが,作品からは,何事もなかったかのようないまある彼らの姿に対する冷たい作者の態度が読みとれた。
私のような昭和 30 年代生まれのひとたちは,大学に入るあたりに,貧乏な暮らしからいきなり豊かな浪費社会に突入したような幻惑を覚えた世代ではないかと思う。紙芝居で飴玉をなめながら『黄金仮面』を観ていたのに,いきなり豪華なコンサートホールで『アイーダ』を楽しみ,レストランでフルコースを注文しはじめたのである。あるものは 1980 年代以降の浮かれバカ日本の代表者になり,その後の日本の悪趣味・偽善の先導者となっていまのこの現代日本を決定づけていると私には思われる。また一方,上の世代の暗い暴力と転向の時代にも,バカ日本の時代にも共感できないあるものは,堂場作品の主人公のように自分の過去の行動に苛まれ自信を喪失した生き方しかできないようである。私は自分の世代が親たちの物質的・精神的財産を蕩尽させ,他人のことを気にせず自己中心的で,子供たちに明るい未来を描けないように仕向け,つまり日本をダメにしたのだと痛感している。
作品の主人公・鳴沢了にせよ小野寺冴にせよ,「失われた十年」の 1990 年代に人格形成し,2000 年代に入って社会の第一線に出た,私たちの次の世代である。彼らは学生運動の世代にも,私たちバカ世代の振る舞いにも違和感を覚えている。彼らの煮え切らない弱さ・強がりはその自信喪失の結果なのである。でも私は,喪失した自信を仕事や技術・芸術で取り戻そうとするこうした 2000 年代の若者が好きである。この作品はそうした私たちの世代の思いをうまく伝えていると感じた。私は 2010 年代に社会に出る私の子供たちが,2000 年代の若者の弱さを克服し,私の世代の遺産を否定して,新しい日本を作ってくれることを望むばかりである。「売り家と唐様で書く三代目」なんてことにならないことを願う。