遊行かぶき『しんとく丸』

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遊行舎演劇公演 — 遊行かぶき『しんとく丸』を観に行った。観劇は 1990 年,旧銀座セゾン劇場で観た『チャイコフスキー殺人事件』(藤田敏雄作,西川信廣演出,山口小夜子主演)以来である。藤沢,一遍上人ゆかりの遊行寺(清浄光寺)本堂での公演であった。原作/寺山修司,演出・脚本/白石征,音楽/J. A. シーザー,説教節/政太夫,歌/長谷川慶子。主演は中島淳子(しんとく丸),岡庭秀之(継母撫子),花岡雪花(乙姫),ほか。

遊行寺の本堂,阿弥陀如来坐像を前にしたお芝居。日本の中世の気が漂っている。寺院を取り囲む木々の蝉の声がわしゃわしゃと聞こえる。お堂に集う,観客というよりは善男善女。床に座って,団扇や扇子であふいでいる。公演に先立って住職らしきひとが遊行かぶきのゆかり・公演の意義をとつとつと話している。白石征,J. A. シーザーも席にいるとのこと。

『しんとく丸』は,継母の呪によって盲目の癩病者となり果てた主人公・しんとく丸の貴人流離潭である。母恋潭でもある。しんとく丸の舞に魅了されたかつての許嫁・乙姫の献身によって,主人公は氏神である清水寺で再生し,いま再び舞を舞う。その絆ともいえる舞は『梁塵秘抄』に見える,あの「舞え,舞え,蝸牛,... 遊びをせんとや生まれけん,戯れせんとや生まれけん」という穉兒の舞である。

「かぶき」といってもこれはあの歌舞伎ではなく,説教節と現代的な音曲が混淆した様式の演劇であった。音曲にはロック調もあれば JPOP 風も,ワルツのような舞曲もあった。日本の古典演劇の様式化への衒いはないが,主人公の置かれた状況が「うたい」で説明されるところなど,能やギリシア古典劇の味わいがあり,簡素極まりない舞台装置を越えた奥床しさがあった。頭を剃った白塗りの裸男が体をくねらせながら踊る様に私は,一遍上人の踊り念仏を想像しただけでなく,寺山修司の映画や昔観た北方舞踏派のアングラ演劇に迸る暗い淫猥な情念をも掻き立てられた。よく通り,明晰に台詞を発する俳優の声に古典的崇高さがあった。喉から汗がしたたり落ちるのがはっきり見えた。しんとく丸,乙姫は美しかった。私は演劇ならではの肉体の生々しさに感動した。

クライマックス,車に載せられたしんとく丸と,それを引く乙姫とが清水に到着する場面 — 舞台の奥にあたる本堂正面扉が開き,黄昏れてゆく外光のなかから二人が登場する。いきなり自然光を背負って現われた神々しさ。観客の後方にある阿弥陀如来にも光が差し込むという舞台効果の凄さ。観客も虚をつかれ,思わずおおとどよめいた。

二時間半以上もの間お堂の板床に胡座をかき続けて,尻が痛くなった。次に来る時は座布団と扇子を持参しなくては。芝居がはねたあと藤沢駅付近をしばらくぶらぶらした。「まなざしのおちゆく彼方ひらひらと……」(寺山修司)。寺田家という横浜家系のラーメン屋で,脂ぎったとんこつラーメンと餃子を食した。あれこれと舞台のシーンを反芻した。店では一青窈の曲が流れていた。店員の好みのようだった。「君と好きな人が百年続きますように」という歌詞にじんときた。

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遊行寺・遊行かぶき『しんとく丸』公演(Aug. 31, 2008)