浦井康男教授の論文

北大の浦井康男教授から紀要論文の抜刷をいただいた。『カラムジン「ロシア人旅行者の手紙」におけるテキスト・バリアントの分析』(北海道大学文学研究科紀要124, 2008.2, pp. 49-102)。ロシア語テクストの計算機処理について先生と若干の意見交換をさせていただいたことがある。これが契機となって,直接先生の授業を受けたわけでもなく,大学を出て以来ただのサラリーマンに過ぎないこの私に,先生は自著の論文や大学のスラヴ研究論文集を必ず郵送してくださるのである。ありがたい。だから読んで必ず感想を送るようにしている。

ニコライ・カラムジンは 18 世紀末から 19 世紀第一四半期にかけて活躍した感傷主義文学の代表者である。日本ではほとんど知られていないが,ロシア文学史ではロシア文章語・標準的ロシア語文体の成立に果たした役割において不朽の名を残している。プーシキンの親の世代にして,フランス語の影響から脱皮してロシア語らしい言語表現を研ぎすませていった先達である。プーシキンは同時代のロシア散文の模範としてカラムジンの『ロシア史』をあげた。つまりカラムジンの言語マナーの研究は近代ロシア文章語研究の要諦なのだ。

浦井論文は,カラムジンの作品『ロシア人旅行者の手紙』の八つの版の間にみられる異文 (ヴァリアント) の変遷から,言語マナーの変化を分析しており,私はまずこの切口にたいへん感銘を覚えた。その後標準的ロシア語と看做されるようになった語に外来語や古語が書き換えられてゆくプロセスを,語の出現度数に基づいて明らかにしている。そのプロセスを3段階に差異化して分析している点も説得力のある論証であり,学問的価値が高いと思った。とくにヴァリアント数に着目して導き出した,各版の言語的特徴の分水嶺を示すスキーマは鋭い。

浦井先生はザリズニャクの文法辞書を独自に電子化し,これをコンコーダンス作成やテクストの計算機分析に活用し,本論文のような研究成果を生み出している。私はいま,先生の手になる文法辞書をうまく利用して,プーシキンの電子コンコーダンスの語解析精度を高められないか思案しているところである。性・数・格に応じた語形変化を纏めた語彙表を生成できないと電子コンコーダンスとは呼べない。現状の私のツールは語の変化形をフォローできないのである。