スパイ小説を読んだ。手嶋龍一『ウルトラ・ダラー』(新潮文庫)。「インテリジェンス小説」と銘打ってある。著者は元 NHK ワシントン特派員である。東京,函館,京都,大阪,モスクワ,ユジノサハリンスク,キエフ,パリ,ワシントン,オックスフォードと世界を跨ぐ舞台設定で,あのいまだに謎めいた北朝鮮の偽札「スーパーX」(本書では「ウルトラ・ダラー」) を巡るスキャンダルが描かれる。
私は諜報活動だとか,国際謀略だとか,小説的物語として楽しむだけだけど,ここ数年の北朝鮮の核開発,拉致の諸問題は現在進行形の関心事でもあり,ノンポリの私でも本書を読みつつ,ウソとホントとが錯綜するなかにも,「ああそういうわけなんだ」と感心してしまうことがしきりであった。登場人物をして語らしめる「読み」として,北朝鮮の偽札工作は核弾頭搭載可能な巡航ミサイル獲得の一手段であるとか,北朝鮮の核武装には米国と日本を核の抑止力でもって北朝鮮に釘付けにし台湾海峡の紛争に手を出せないようにする中国の意図が反映しているとかは,そのようなものである。この予断を許さない北朝鮮情勢において,著者は己の捉えた真実を「イソップの言葉」で語っているのだ。これが本書の魅力である。小説として書くことを狡いとみるか,こうするしかないとみるか,意見の別れるところかも知れないが,私は面白かった。
小説としてはそんなに読ませる作品ではない。日本の浮世絵,服飾,料理についての細かい描写が作者の教養を伺わせて興味深いとはいえ,私自身は,本書のこうした日本の伝統の描写に対して,舞台装置以上のリアリティも毒も感じられなかった (谷崎潤一郎のような,その料理を食ってみたくなる衝動にかられる描写を読みたかった)。しかしそれはそれとして,ホットな国際情勢を主題にしつつ,複雑な国際関係のなかでインテリジェンスの世界に生きる人間像がやはり本書のもうひとつの魅力であるといいたい。登場人物に対し敵/味方の差別なく人間的な共感を覚えさせる「意気込み」こそが作品を魅力的にしていると思う。スパイというか,インテリジェンスに関わるエリートだって,野球やプロレスが好きであり,恋人や肉親の情に絆されるその姿は一般人と変わりない。歴史に対して責任をもつべきというモチーフが登場人物によって語られるくだりは重みがあり,感銘を覚えた。のほほんとしているべきではないぞ。
ところで,北朝鮮を巡って日本にとってよい進展がなかなかみられない情勢である。拉致問題は絶対に許せないし,この問題解決なしに北朝鮮との友好関係はありえないわけだけど,しかし,北朝鮮という国は,みたところあんなに貧乏な小国なのにも拘らず,米国,日本,韓国を手玉に取る外交を繰り広げていることを思うにつけ,ある意味で尊敬に値するとつくづく思う。強行「姿勢」だけの,いまの日本の無策の外交力では,どうも打開の望みは薄い。
それ以上に,脱北者の証言などで北朝鮮の貧しいイメージを掻き立てて,北朝鮮国民を物笑いにするような報道が目立つのは本当に恥ずかしい。日本だってかつては食うことにも困る生活に甘んじていたけれども,一般国民は決して不幸ではなかったはずである。崇拝の対象が将軍様ではなく天皇陛下でレベルが違ったかも知れないが,北朝鮮はかつての大日本帝国に似ているんじゃないか,そう思うと,真面目でストイックで気概に満ちたかつての日本人への憧憬と同じく,北朝鮮のひとびとにも敬意の念を覚えてしまうのは私だけだろうか。本書とは直接関係ないけど。