R. ヒングリー『19 世紀ロシアの作家と社会』

本書はオックスフォード大学教授ロナルド・ヒングリーによるロシア文学研究の必読書である。私は学生の頃,先輩に勧められて購入したが,当時はプーシキン関係の部分を中心に飛ばし読みしただけで,はじめから最後まできちんと読んだのは今回がはじめてである。

ドストエフスキイ,トルストイ,ツルゲーネフ,チエーホフなど,ロシア文学はなんの予備知識がなくても作品に没入することができる。彼らの小説が明治・大正のころから日本人の求道者精神に訴えたこともあって,伝統的に日本のロシア文学研究では,「人間いかに生きるべきか」という側面からの言わば文芸批評的態度,もしくはディレッタント的取り組み方が多いとされてきたように思う。それはそれで意味があるわけであるが,作品の理解において,時代や風俗のもつ要素をきちんと評価しないと,読み誤ることがあるのも事実である。本書は 19 世紀ロシアの帝国地理・都市,民族,経済,交通手段,民衆・社会階級,宗教,警察・軍隊機構,教育などの文化的背景を,丁寧に,ときに英国人らしいユーモアをもって解説してくれる素晴らしい教科書なのである。事実の説明だけではなく,バランスのとれ含蓄のある穿った意見を取り混ぜつつ,法制度・政治機構が作家の作法にどのような影響を惹き起こしたかを周到に述べている。文庫でありながら,参考文献一覧,索引もきちんとしている。著者のみならず,この書籍の重要性を理解し翻訳して世に出してくれた川端香男里先生や中央公論社に敬意を表したくなる。

とくに第 I 部『作家の立場』,17 章『雑誌と検閲』が面白かった。「十九世紀ロシアの文学作品を読むと,その作品を書いた人々がもっぱら人間の普遍的条件や,哲学,宗教,倫理の問題に関心をもっていたように思えるが,彼らの私的な手紙のやりとりを見ると,金銭というより世俗的な主題にとりつかれていたことがわかることが多い」(p. 45),「ツルゲーネフとドストエフスキイの有名な文学的論争にしても,原則的な事がらについて代表的な西欧主義者とスラヴ主義者が,がっちりと組んで論争した形となっているが,この不和の種のほんとうは,表面に出ることの少ないこと,千八百六十五年にツルゲーネフがドストエフスキイに貸した五十ターレルにあると見たい気がする。[...] ドストエフスキイは,ツルゲーネフがまず最初に自分に恩義を与えたということで,ツルゲーネフを許すことができなかったのである」(p. 48),「念入りな官僚統制はしばしばその裏をかく念入りな方策を誘発する。ロシアの検閲体制もその例外ではなく,そのような抜け道を何とか押しとどめようとしたが,ロシアの作家はやはり意思伝達の手段を見いだしたのである。一つの技法は『イソップの言葉』による間接的なほのめかしである。[...] 知的に飢えたロシアの読者は暗示を理解し,行間を読みとることにかけては熟練していた。[...] 抜け道にはまだ他の手もあった。外国雑誌にのった政治論文を公然と非難しつつ(これが唯一の可能な方法であったから),この論文をふんだんに引用して,読者に知らせるという手がよく用いられた」(p. 283-5) などなど。

日本ではマイナーな分野の優れた本はすぐ絶版の憂き目にあう。本書もその例外ではなく,いまや古書でしか入手できないようである。ロシア文学愛好家の方はすべからく本書を入手して堪能してほしい。

19世紀ロシアの作家と社会 (中公文庫)

 
ロナルド・ヒングリー著,川端香男里訳
中央公論社