高校時代,三島由紀夫やら谷崎潤一郎やら川端康成やら太宰治やらを読みすぎたせいか,大学に入ったばかりのころは「文学」には「面白い」という素朴な関心を越えたステータスがあると思っていた。いわゆる「純文学」こそが最高の文学であり,藝術作品であり,これを理解する者こそインテリに相応しいのだという幻想があったと思う。そう,日本的教条主義に毒された幻想が。
大学時代の友人 O はそんな私の対極にあった。彼は東京私学の名門・暁星高校を卒業し,フランス語しかできず英語の授業でからかわれ,試験では皆からノートを借りまくっていた。ある皇族の姫様のお婿様候補が高校の同級にいたので「御学友」などと茶化されていた。なぜか卒業論文は不幸なシモーヌ・ヴェイユをテーマにしていた。彼は幼いころからとにかく「面白おかしい」物語を渉猟するという幸福な読書人生の持ち主であった。吉川英治や栗本薫などの大衆文学がなにより好きで,第二藝術というか,サブカルチャー小説も大いなる関心をもって読み漁っていた。また,半ば敵意をもって芥川賞作家の作品を敬遠していた。「タンポンを嘗めた感想でも書いていろ」と言うのだった。
ある夜 O と本の話をするうち,筒井康隆の『俗物図鑑』が話題となった。読んだことがないと私が言うと,「これから読めるなんて羨ましい」と O。すぐさま私は『俗物図鑑』を読み,筒井康隆の度を弁えないハチャメチャな語りの快楽に,ただちにハマってしまった。三島由紀夫は天才の寄せ集めだけど,筒井康隆は天才そのものだと思ったものである。文学には第一も第二もないというフラットな視線を,私は筒井に,O に植え付けられたように思う。
とはいえ,大学を出てからしばらく筒井の作品から遠ざかっていた。岩波新書の『短篇小説講義』を読んだ程度である。最近テレビドラマ『富豪刑事』で筒井先生をお見掛けはしたのだけど。ここにきて久しぶりに手にとった筒井小説は『文学部唯野教授』。これが出版されたとき,いまや筒井も岩波書店から本が出せる時代になったのかと複雑な感慨を覚えたものだった。筒井もとうとう解毒剤を注入されて,アカデミズムの領域に入ってしまったのかと。
この作品は,大学の文学部というところの「どうしようもなさ」を筒井一流のハチャメチャな語りで戯画化しつつ,ニュークリティシズム,ロシア・フォルマリズム,記号論,(ポスト)構造主義などの文学批評・文芸学理論を裏側から概観し,その代表的な批評家・思想家たち — かつては私ものめりこんだ — の言説を皮肉たっぷりに茶化し,相対化している。青春時代を嗤うようで,楽しくなってしまう。文学研究とは無関係な学内政治に奔走している大学文学部の先生の姿が,文芸批評・理論の仮構性とパラレルになっているようでじつに面白いのだ。文学作品を借り物の理論で割り切ろうとする者が,頭を冷やすのによい。唯野教授の講義が日本の文学理論エピゴーネンたちをこっぴどくやっつけてくれていると,もっと笑えたんだけど。