『「奥の細道」をよむ』

長谷川櫂著『「奥の細道」をよむ』(ちくま新書 661,2007 年)を読んだ。久しぶりの芭蕉俳句論。 長谷川櫂は俳人としても著名である。『奥の細道』は日本の古典における紀行文学の最高位にあるわけで,現代の俳句実作のプロの目が見る『奥の細道』の面白さを教えて欲しいという気もあって私は本書を手に取った(すでにこれを読んだ妻から借りたのである)。

『奥の細道』は歌仙の面影を映すという見解は新鮮であった。深川出立から蘆野まで,白河関から平泉まで,尿前関から越後まで,市振関から終着大垣までがそれぞれ,初折の表,裏,名残の表,裏に対応するという。テーマ論的には各々,旅の禊,歌枕巡礼,宇宙的体験,浮世帰りだという。その論にはさすが現代俳人に相応しい構造感覚を認める。

なるほどそういう見方があったのかと感激した。古典との結びつき,不易流行の芸術観を経て「かるみ」に至る過程が旅の道程に敷衍されているというのだ。『奥の細道』についてはこれまでも実際の旅の体験に捕われないフィクショナルな細部が指摘されているけれども,歌仙という俳諧の最高様式と芭蕉詩の進化論とがパラレルになっている作品構造の魅力を,本書はうまく伝えている。

『奥の細道』のなかで,象潟のくだりがいちばん好きである。「松島は笑ふが如く,象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しびをくはえて,地勢魂をなやますに似たり」と書き,象潟に中国古代の美女西施のなやましいイメージを重ね合わせるその文章は,蕭然として艶冶な色気がある。長谷川の次の指摘は,芭蕉が松島と象潟とを対比してみせた意匠を巧みに言い現している —「これは歌仙でいえば,初折の裏に松島があり,名残の表に象潟があることになる。まるで鏡の前の美女と鏡に映るその幻のように二つの多島海が向かい合う」(p.181)。見事な解説である。

芭蕉の「古池や」の句を現実の風景と心象とのとりあわせと捉え,蕉風のひとつの型として分析している部分は,たいへん興味深かった。ただ,ことあるごとにその型にこだわる解説は,ちょっとうるさい,余計なお世話と思われなくもなかった。

ところで余談だが,本書の『奥の細道』の出典は尾形仂『おくのほそみち評釈』に拠っている。そこでは,「馬の口とらえて」とか「笠の緒付かえて」など,いわゆる歴史的仮名遣いからずれる表記が散見される。一方で,芭蕉自筆本(『芭蕉自筆 奥の細道』岩波書店,1997 年)では「馬の口とらへて」,「笠の緒付かへて」となっている。要するに,この仮名遣いの統一のなさは,築島裕のいう「実態」としての仮名遣い(築島裕著『歴史的仮名遣い』中公新書,1986 年を参照)という範疇の具体例であろう。芭蕉の「教養」が足りなかったわけでは決してない。

高等学校の教科書では,「馬の口とらへて」,「笠の緒付けかへて」のように,歴史的仮名遣いに「改められて」いるはずである。古典の原表記とはこのようなものであり,ちょっと面白かった。こういう「実態」を知らずして,「現代仮名遣いは日本古来の文化との断絶」のような大げさなことを言わないほうがよさそうである。