哲学者ミステリ作家小森健太朗の『グルジェフの残影』(文春文庫) を読んだ。この三連休で夜更かしが嵩じて生活が乱れに乱れ,日曜の夜,ふっと寝入って夜半三時過ぎに目が醒めたらもう眠れなくなり,本書を読んで朝を迎えてしまった。朦朧とするまま早い電車で出社した。もういいオヤジなんだから学生みたいなことをするなよな。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけてロシアは偉大なる哲学と詩の時代を迎える。ヴラジーミル・ソロヴィヨフ,ニコライ・ベルジャーエフ,ヴャチェスラフ・イヴァーノフ,などなど。ニーチェに影響された神秘主義者が大活躍するとともに頭でっかちの思想家が輩出し,ラスプーチンのような香具師が権力を握り,一方で過激な唯物論者・共産主義者が台頭してくるという歴史を歩んだ。この小説は,革命前後のロシアの神秘思想家ゲオルギイ・イヴァーノヴィチ・グルジェフとピョートル・デミヤーノヴィチ・ウスペンスキイとを登場人物に配して,その時代絵巻を描いて見せてくれる。恐ろしく倫理的で真面目なひとたちの百花斉放の果てが残酷な一党独裁国家に収斂していく,混沌として化け物じみた人類史上希にみる時代。
書物の半ばを過ぎたあたりに,とってつけたような殺人事件が描かれる。大量殺戮の時代にいきなり平和な世の中のケツの穴の小さい謎解きが語られるような印象が拭えない。それがロシアの歴史に影響する事件のような色を仄めかしてはいるけれども。作者もこの瑕疵は意識していたようで,それでもミステリの型に拘ったのだと巻末の対談から読み取れる。
この小説は革命期の混迷した時代背景,神秘思想の展開それ自体が謎めいた世界になっている珍しいミステリである。ドストエフスキイの小説のように,穢れ切った現実がリアルであればあるほど幻想的世界に昇華してゆくようなものである。主人公のその後の運命が二十世紀の現代神秘思想の展開を予測させるような趣き,余韻,広がりを感じさせる。「偉大な男性でも,結婚相手を選ぶときには,中身を見ないで袋詰めの買い物をしてしまうというニーチェの『ツァラトゥストラ』中の言葉が,そのときオスロフの頭に浮かんだ」(pp. 284-5) というような気のきいた一行に出くわすだけで,この作品の懐の深さが知れるというものだ。