この三連休,気ままに過ごしている。
WebCountServlet Java アクセスカウンタのパッケージを更新した。プログラムそのものは何も変えていないのだけど,従来 Makefile で実施していたコンパイルとデプロイを Ant build.xml で実行するように変更し,Windows ユーザでも構築が容易になるようにした。Web の取扱説明書も更新した。
田中貴子著『百鬼夜行の見える都市』(ちくま学芸文庫) を読む。京極夏彦のミステリを読んだばかりで日本の鬼神に関する書物にちょっと興味をそそられた。2000 年前後は京極作品のほか,映画『陰陽師』など,「鬼」ブームだったようで,この類いの和のホラーが注目されたようである。
本書は,百鬼夜行と平安京の都市幻想との関わりをテーマにしたものである。文学と都市との関わりの分析は前田愛教授の数々の素晴らしい論考以来,流行りといってもよい。百鬼夜行が都市の共同幻想であるとの論理は穿った見方だと思う。しかし,では時代の転換期に創造された日本の古典において,鄙に百鬼夜行の類いが描かれることはなかったという裏返しの命題が真理かどうかを考えてみると,その批判に耐える論にまでなっているだろうか。大内裏周辺で百鬼夜行が観察されるということと,橋下の異界幻想などが,どうして「都市」の文化的・社会的背景に特有であるといえるのか,私にはよく分からなかった。著者の主張が作品の語りのリアリティとして直截落ちてこないのはどうしてか。
それは王朝都市の衰退の背景に拘るあまり,作品そのものの魅力を明らかにする記述がいまひとつ不足しているからだ,と思うのは私だけだろうか。著者の主張によって『今昔物語』や『大鏡』をもう一度読みたくなるには到らなかったのだ。作品そのものの生命として理解できない日本文化論は,私のような民俗学・国文学の素人読者にはあまり意味がない。例えば,松山巖著『乱歩と東京』(ちくま学芸文庫) は,都市幻想として乱歩を読み解くことで乱歩作品をさらに深く理解させてくれ,乱歩をまた読みたいと思わせてくれた。これと比べると田中の著書は,都市と関連づけられた幻想文学の類型論としては,『今昔物語』など百鬼夜行の登場する作品をより深く理解させてくれたとか,都市文学たる所以はどこにあるのかとか,なるほどそう読まないとこのテクストの真の意味をなさないとか,そういう膝を打つような感銘を,私には与えてくれなかった。要するに古典の理解において目を啓いてはくれなかったのだ。
とはいえ,なんかさんざん腐してしまったようだけれども,読んで損したというわけでは決してない。本書はたいへん啓蒙的であり,千年の古えの精神を相手に現代的視線で — 都市という観点は現代的でなくてなんだろう — 切り込んで行く著者の意図は刺激的であり,面白い本であることは間違いない。京極夏彦の解説によれば本書は「恐竜の皮膚の色を問い直すような」仕事である。ちょっとその色ホント?というだけなのである。
夕食のあと,食器洗いをしながら — 風呂の掃除と休日の食器洗いは私の担当なのである — iPod でクィーンを聴く。『A Night At The Opera』と『A Day At The Races』。この二作は私にとって,ピンク・フロイド,イーグルス,レッド・ツェッペリンと並んで 1970 年代のロックの金字塔である。それ以降のクィーンには愛想がつきてしまったのだけど。鼻唄を歌いながらノリノリで仕事をしていると,娘がヘンなオジサンに見えるよと腐す。うるせぇ。