『魍魎の匣』(1995 年作品)。堤真一主演の同名の映画が最近封切られたこともあり,興味をそそられて読んだのである。千頁以上の分量もその面白さゆえにあっという間で捌けてしまった。吉川英治にのめり込むのに似ている。
ひとことでその感想を述べると,小栗虫太郎風のペダンティズムと江戸川乱歩風の妖気とがユーモアと結びついた一種独特のコスモス。
妖怪や神道儀礼などに対する該博な文献学的知識に基づく推理。その重箱の隅をつつくような知識で登場人物の行動のまやかしが暴かれる。逆にいえば,そのための知識の充填であり,小栗のひけらかす荒唐無稽なまでの自己目的化した知見 — それゆえにペダンチックなわけだけど — に酷似している。とはいえ,ペダンティズムは,ことミステリにおいては,決して悪い属性ではない。圧倒的な学識はそれ自体が門外漢にとって幻想的世界,あやかしの舞台を齎すから。小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』に幻惑されたことのある読者ならその説明は不要だろう。
匣に納められた少女は,生身の人間を持ち運び可能な愛玩物にしたい欲望という意味で,乱歩の『押絵と旅する男』のモチーフと同じである。その妖しいイメージは乱歩の正統的後継だと思う。
そしてもうひとつ,「ユーモア」がなにより効いている。「榎木津はいい加減飽きている。... その加菜子とか云う娘を捜すこととその娘の出生までの経緯を聞かされることの間に,榎木津は殆ど関連性を見出せていない。... 煙草を吸う度に煙草屋の婆ァの半生を聞いていたのでは,煙草屋から戻るまでに煙草を全部吸い終わってしまう」(p476)。笑いをもって何かを認識させてくれる特性は,私にとって語り手がただ者ではない証拠なんである。これこそが,単に虫太郎と乱歩とを想起させるだけではない,京極夏彦独自の世界を形作っているのだと思う。この三つの特長を兼ね備えたミステリはなかなかお目にかかれない。
さすが人気作家である。とうとう京極堂に捕まってしまった。