前から気になっていた映画『ゲルマニウムの夜』(2005 年作品) をレンタル DVD で観た。花村萬月原作小説の映画化である。荒戸源次郎製作,大森立嗣監督,音楽は千野秀一。出演は新井浩文,広田レオナ,早良めぐみ他。
主人公はゲルマニムラジオに神々の囁きを聴き,暴力,性的淫行の動物的行動に駆り立てられる。修道院における淫行,良心の呵責なき暴力,動物虐待など,本作品のシーンのいくつかには,目を背けたくなる方もいると思う。悪趣味で不快感を催す映画だと断じ捨ててしまいたくなるかも知れない。間違っても恋人と観てはいけない。もちろんこんな映画を,他人の言動に踊らされやすい子供には見せてはいけない。
しかし,この映画の背徳的・冒瀆的シーンは,芸術作品の個人的享受においてなおも日常的・社会的常識に弛緩した倫理観に踏みとどまらずにはおれない者にこそ,リアルな不快感を齎すのであって,ゆえに逆に倫理的視線に支えられた硬派の映画だということができる。主人公の「どうして私は罰せられないのでしょうか」という台詞は倫理的でなくてなんであろう。
最近の日本のふやけた映画(「守りたい」症候群に冒された JPOP 的駄作ばかりなのだから)にげんなりしている者にとっては,この映画は ATG や日活ロマンポルノなど昔の邦画のあの一種独特の「ぎごちなさ」を想起させてくれ,「懐かしく」思うのではないかと思う。実人生の体験には,どんなに強烈な感情に囚われていても,どこか白けた要素がある。「ぎごちなさ」というのはそういうような感覚である。主人公・朧とアスピラント・教子との倉庫でのセックスシーンも,この上なくいやらしい — 感動的な — エロであり,また一方でどこか醒めている。
雪道を主人公が歩く姿が何度も描かれる。冒頭の牛のゆっくり歩むシーンとのパラレルが明らかで,人間のなかの動物性を浮き彫りにする。雪のなかに十字架が立ち並ぶ薄明の墓地。暗闇に舞乱れる粉雪。そういう絵に対するこだわりとは裏腹に,登場人物の表情や台詞は投げ遣りといってもよいくらいにドラマ感・切迫感がない。ぎごちないのだ。観る人によっては「この俳優へたくそ」と思うに違いない。しかしこれは,思うに,意図的手法であって,まるで仮面劇のように行為と言葉をむき出しにする。私なんかはこのほうが,安直なリアリズムを売るテレビドラマとは違う,映画というものを観た気分になるんである。主演の新井浩文も,その一重瞼の三白眼で傍若無人なニヒリスト役に嵌っていて,私の思い描くカッコいい男優像なんである。
千野秀一の音楽もよかった。ヴァイオリン,ベース,ピアノによる,緩やかで寂しく鬼気がある。最近の映画に必ず付いて廻る安っぽい JPOP なんぞで煽り立てられないだけでも出色だった。
こんないやらしい,背徳的な,また倫理的な映画は子供には見せてはいけない。大人だけの密かな楽しみにしておくべきである。ところがエンディングロールに文化庁協賛の文字が流れて私は驚いた。どういう判断のもとに協賛したのか。文化庁職員はこの映画を観たのだろうか。「芥川賞作家の原作」という看板に幻惑されて踏み外したんじゃないかと思う。作品が公開されたあと庁内で物議を醸して責任のなすり付け合いが始まったのではと想像して楽しくなってしまった。