タクシードライバー

今年も年末,開発作業がピークを迎えつつあり,いくつかの担当顧客システムのリリース作業が立てこんでいる。出来る限り集中しないようにスケジューリングしたはずだった。余裕をもって日程を分散させたつもりだった。が,ある顧客作業でのトラブルがもとでイベントが順延した結果,皮肉にも集中するはめになりつつある。ここでミスを犯すと,また昨年のトラブルプロジェクト対応のように年末年始が吹っ飛ぶリスキーな状況にある。加えて,予算時期に打ち当り,もう泣きたくなるくらいなんである。

そんなわけで今夜も子分と相乗りタクシー。最近は深夜帰宅のタクシー利用に会社もやかましい。まあかまうものか。でも精算できていない伝票が溜る一方である。事務所ビルの入り口には例によってタクシーの行列。子分と乗り込んで行き先を告げる。いまひとつ運ちゃんの反応が鈍い。耳順を越えたと思しきおじさんタクシードライバー。いきなりスタートしてしばらくたってから,「高速でよいですか?」。「ええ...」と私(さっきそう言いましたよ...)。子分とバカ話をしながらだったのであまり気にもしなかったが,西小山で彼を先に下ろした瞬間に不安になってきた。

中原街道から西小山周辺に入ると,一方通行の狭い道が入り乱れるような住宅街である。もういちど中原街道に出るように言うと,案の定,タクシーは道に迷ってしまった。まあよい。もう深夜の二時で,やっと捕まえた通行人に道を尋ねる。バイクでこれから中原街道に出るので後ろを付いてこいと言う。親切なひとである。一方通行を逆戻りするときタクシーは家屋の植木にテールをぶつける。あちゃー。沈黙。 おじさんは気にせずバイクに続く。やっと中原街道に出た。いまさらながら,スピードを出さないのに気付く。ほかの車がみな 70〜80 km/h 程度で走っているのに 50 を越えることのない「安全運転」である。そのほうが反って危険な臭いを覚えるのは私だけだろうか。

環八からガス橋方面に折れてくださいと私は言ったが,あれよ,タクシーは曲がり損ねてしまった。結局,矢口の第二京浜を川崎方面に右折させた。道を知らないタクシードライバーほどやきもきさせるものはない。「この車,禁煙車ですか?」と私。沈黙。しばらくしてからおじさんがポツリ「どんどん吸ってください」—「じゃあ,スイマセン,吸います」。 沈黙。おじさんがまたポツリ「来年一月から禁煙になるんですよねー」。 あまり話しかけないで運転に集中いただいたほうがよさそうだ。昨日も夜中の三時まで仕事をして,タクシーに乗るまでは,私は眠くて仕方がなかった。信頼を置けそうなドライバーなら車中で眠ろうかとも思ったが,いまや眠気も吹っ飛んでしまった。

やっと自宅のそばまで漕ぎ着けた。最後にもうひとつ不安があった。果たしてそれは的中した。今日,私は現金の持ち合わせがなかった。クレジットカードで支払いをしようとしたら,このおじさん,カードの磁気が印刷されていない側で読み取らせようと必死になっている。沈黙。六十歳を過ぎて真夜中にタクシーを操っているこのドライバーに,同類相哀れむ惻隠の情がしみじみと涌いてきた。

「すいません,カードはあまり使ったことがないのでね」—「この黒い色の付いているほうで,こう,擦ってみましょう」と私。おじさんはしげしげとクレジットカードを眺める。沈黙。おじさんは決然としてカードをリーダに通した。「センタートコウシンチュウデス... センタートコウシンチュウデス... センタートコウシンチュウデス... センタートコウシンチュウデス... センタートコウシンチュウデ...」 ..........................................................................................................................................................................................................................