教えてクン

人文系の論文とソフトウェアのマニュアルは,書いても読まれないもののひとつである。逆にそういうものをきちんと読む人を私は尊敬してしまう。

私もときおり訪れては発言する TeX の Q & A サイトで,ピントはずれな質問をしまくる初心者について,最近議論があった。初心者ユーザのなかには,マニュアルや書籍,インターネット・リソースにあたればすぐに明らかになることを自ら調べもせずに,なんでもかんでも質問する,しかもその質問たるや何をどうしたら出来したエラーなのかなどまったく条件を示さずに結果だけで問い合わせを行うような人がいる。こういうひとを「教えてクン」というらしい。パワーユーザが出入りするような,先にふれた TeX サイトなどでは,こういう「教えてクン」が古株に諭されるような場面にも遭遇する。「ならなぜこういうサイトの意味があるのか」などと逆切れする哀れな「教えてクン」もいる。こんなのに出くわすと,何が「恥ずかしい」行為なのか,わからない人がたくさんいる — そういう思いを強くする。

私が会社に入って何もわからないなかで仕事をしなければならなかったころ,製品工場の担当設計に問い合わせをすると,これこれは調べたのかとか,マニュアルは見たのかとか,とにかくドキュメントを参照しているかをまず切り返され,下調べが足りないと「あっそ」とけんもほろろにプチンと電話を切られるか,ガミガミお叱りを受けるかしたものであった。だからして,人にものを尋ねる場合は,最低限マニュアルに目を通し,「こういう条件でこういう結果になった。ここまで調べたけれども,この先が手元の資料では不明なのでどうすればよいか」式のパターンでぶつかっていかないと進展がないということが骨身に染みてしまっている。

仕事で手厳しい扱いを受けるとこのように,わからないことはまず自分の参照しうる範囲の書かれたものを自分で調べなければならないと考えてしまう。安易に人に教えてもらおうというのは恥だと考えるようになるものである。これが知ったかぶりの弊害を生むこともあるが。機械の操作に慣れない年配の人はビデオやエアコンなどの電化製品が思うように動作しないとすぐ電器屋を呼びつけて対処させようとする。年寄りは自分を磨くことより時間が何よりも大切なのでこれでよい。ところが,インターネットが普及して誰もが計算機を使うこの時代,このマナーは若者にも波及している。とにかく,ものを読んで理解しようとしない。おいしいところだけもってゆきたがる。

恋人がカメラにフィルムを入れる方法がわからず,「やり方わかんな〜い。お願い,やってくれる?」とおねだりして,私の知人は「しようがないなあ」と彼女のカメラにフィルムを装填してやった — そんな光景を私は思い出す。恋人たちのいちゃいちゃは微笑ましいわけなんだが,ちょっと取説を読めば出来ることを「わかんな〜い」ですまそうとするのって,「大人」のやることだろうか。こんな女も,またこんなのを可愛らしいと思う男(女はバカなほうがよいと思っている愚かなタイプではなかろうか)も,私は嫌いである。

うまく使ってもらおうと一所懸命に取扱説明書を書いても誰も読まない。そのくせ文句をのたまう。「マニュアルを読まなくても使えるようにするのがインターフェースデザインの極意」みたいなことを平気でいう人,信じている人がいる。ものごとには面倒を克服しないとわからない深みがあるということを知らないのではないだろうか。

うちの子供も勉強でわからないことがあるとすぐ私にききにくる。自分でどこまで考えたのかをまず語らせるようにしているが,いくら口をすっぱくして諭しても正されない。どうして? おまえ,教えてクンか!