韓国人プログラマ面接

私のトラブル対応への要請は本来,担当のサブシステムについてM票(問題点指摘票)を受け付けて担当者に割り振り,スケジュール管理を行い,予定どおりにゆかない場合,その問題解決にあたる,というのがミッションだった。要するに旗振りをすればよいと思っていた。

ところが,来てみると,プログラム開発担当者はトップ・プライオリティのサブシステム対応で占有され,私の担当サブシステムに応接する余力がまったくない。つまり旗を振りに来たのに,その旗の前には肝心の右を向いたり左を向いたりするやつがひとりもいないのである。動かさなくてはならない時期はどちらも同じなのに。当然ひとの数を増強しなければならない。私は,M票が出はじめて三ヶ月放置され,まるで臭いものにフタをされたようなこのサブシステムのM票を,誰もあてにせず調べるところから入るしかなかった。顧客はそんなことはまったく意に介さないから,担当サブシステムの「責任者」である私をがんがんフォローアップし,遅々として進まない状況に怒りまくる。当然である。

このシステム,最大の問題点はシステム仕様が纏まったドキュメントとして記述されていないことにあり,要するに何十万行ものソースコードのジャングルを探索しないと何も解らないのである。最初に「設計」した技術者はメンタル面で病んで会社を辞めてしまった。納品から一年以上経過しており,すでにチームが解散していたところに,今回の品質問題勃発である。再度編成した開発チームには,中身を知った開発者はひとりもいない。クイーンズタワーの猿部長の逃腰にも納得がゆくというものである。お客さん,一年間いったいなにをしてたんでしょうか。

M票に記載された中途の調査状況や対策工数の断片から作業量をざっと求めて,三月末で終了するためのスケジュールを引いた。その結果,私のチームには SE ひとり,Java プログラマ五人の追加が必要と判断した。PM(プロジェクトマネージャ)である部長にその旨説明し,要員増強を要請した。この部長も,可哀想に,私より少し前に白羽の矢が立ってよそのプロジェクトからひっぺがされてきたのである。責任感の強い彼は,私のいうことに疑いを差し挟まず,すぐさま調達部署に五名のオファーを依頼した。

翌日,状況を訊くとなかなか見つからないという。調達部門を経由してひとを探すのは正攻法であるかもしれないが,崖っぷちに立たされた現場の緊迫感が伝わらず,三日かかるものは三日かかり,トラブルで死なんばかりの現場が要請するスピードにとても応えられないことを私は知っている。イライラして朝会でなんとかしてくれと訴えた。PM は全体のしきりがタスクであり,こういう場合,その補佐をする「三人」の PMO(何の略かしらん。妻は「ピンクの桃のおしり?」と冗談をいっていた)が動き回ってしかるべきなのだが,これまたみんな部長クラスで自分で動く気になってくれない。いったい全体なんて体制だ。この軍団は将校ばかりで一兵卒がいないのだ。私はちょっと頭に来て,私が付き合いのある公共システム系ソフトハウスのリーダーに片っ端から電話を掛けまくって,Java プログラマがいないかすぐリクルートしてもらうよう頼んだ。しかし公共関係は年度末納期のシステムが大半であり,三月のこの時期自分のシステム開発で大童になっていて,たった五人の捻出もままならないという。

三月一日の夕方,韓国人プログラマなら何人か候補がいるとの連絡が調達部門から入った。コミュニケーションと作業モラルがなによりもまず心配になった。私は中国人プログラマで失敗したプロジェクト例をいくつも知っている。日常会話が通じても,肝心のキーワードを誤解されたり,皆が徹夜をしている横で,「ぼくは今日は用事があります」といって仕事をほっぽって帰る個人主義的主張をされたら,チームの足を引っ張るだけである。三十秒悩んだが面接を申し入れた。

三月二日午前,八名の韓国人プログラマと会った。四人は学校を出たばかりで,さらに来日して三ヶ月しかたっていなかった。がんばりますという気合いは感じられたが,仕事人生の第一歩でこんな病的なプロジェクトに放り込むのは不憫だと思い,心の中で選考から外した。結局三人がなかなか日本語もでき,Java の様々なフレームワークの経験をもっており,なによりガッツがありそうで使えるかなと考えた。なかでもいちばん日本での開発経験が豊富な三十一歳のキムさんは,不敵な薄笑いを浮かべて,仕様書のないシステムなんて韓国では当たり前で,ソースコードからリエンジニアリングするなんて慣れたものだとしゃあしゃあと語る。そうか,いい加減なシステムにはいい加減なことをやり遂げたやつを充当するという発想。こいつだけはなんとしても雇い入れて,一緒に仕事をしよう。

ごく短い時間だけ私が面接した韓国人プログラマは皆,なんとか仕事にありついてがんばるぞといった意気込みを感じさせた。元気がなく,ぼーっとした印象が強く,線の細い日本人プログラマより気迫があるし,前向きである。逆境で真価を発揮する韓国代表サッカー選手を思い出した。このままでは,おそらくもう二十年したら日本は間違いなく韓国に国力において追い抜かれると思う。

面接のあと,ブローカに三名を指名した。面接の場でキムさんをリーダーとしたチームで採用してほしいとのお願いがあったのだが,三名だけだとだめかと交渉した。「考える」と彼はいい残して,引き上げていった。その夕方部長から,あの韓国のプログラマ,よそに持っていかれたよ,との連絡があった。そのサイトは三人だけというケチな条件を出さなかったわけである。うーん,いよいよ私はどうすればよいのか。兵隊がいないと闘いようがないではないか。