冬のオリンピックといえば,長野冬季五輪はいろいろな意味で感慨深かった。ジャンプで日本チームがすばらしい活躍をした。五輪というのはその国の世情が出るのが不思議である。バブル崩壊以降,オウム真理教による地下鉄サリン事件,阪神・淡路大震災,サカキバラ君のおぞましい殺人ゲーム事件を経て,常識のボーダレスと日本人の脱力感が頂点に達したこのころ,起死回生の感慨を抱いた人は多かったのではないだろうか。私は,やはりジャンプで日の丸が三本揚がった 72 年の札幌五輪を思い出した。この年私は九歳だった。友達と興奮してテレビを観た記憶がある。いまにして思えば,ニクソンショック,オイルショック,日本赤軍のテロなどで戦後最大の危機的事件が多数起こり,札幌五輪はその幕開けであったかのような印象がある。
98 年は個人的にも大きな節目だった。年初,私はそれまでの十年間の無茶苦茶な労働が祟って,肺結核などという古風な病気を診断され,かかりつけの病院から,東京瀬田(二子玉川)にある玉川病院の隔離病棟に「収容」されてしまったのである。
近代的な一般病棟とは異なり,隔離病棟はまるで上海異人館のような頽廃的な趣きがあった。病室のベランダには洗濯物が干してある。古びた結核病棟の裏手に面して原始林が広がっていた。同じ東京の地にあるとは思えない,まるで堀辰雄の『風立ちぬ』のような一種独特の大正風があった。裾の長いワンピースの白衣を着けた看護婦が出てきそうな気配があった。そこにはゲホゲホ咳き込む肺病病みが数十名おり,なかには五年間も「暮して」いる大先輩がいた。オープンの談話室では常連が将棋を打っており,肺病病みのくせして煙草を吹かしているやつがいる。図書室がある。「タンはくな」と貼り紙した見窄らしい洗面所と便所。病室はまるで旧制高等学校の寮のように汚く古く,夏にはムカデが出るという。国費補助で成り立っているがゆえの最低限の施設。ガーフキー(結核菌の増殖度)のレベルで病棟の階が決められているようだった。最上の三階には肺の四分の三が壊死した患者がいた。私は軽度の患者だったためか,一階の病室があてがわれた。四人部屋の私のベッドには作り付けの棚があった。天井を眺めると,小さなヌード写真が貼ってあった。
毎日朝六時と十九時の検温。午前と午後にアイナ(抗結核薬)の服用。おばさん看護婦にケツを捲られ,痛い痛いストレプトマイシンの筋肉注射を打たれるのが週二回。あとは何もない。メシのみ。先生は月一回回診にくるだけ。定期回診以外でガスマスクのような覆いを付けた医師の姿をみると何事かと訝ってしまう。ときに夜中に看護婦がどたばた駆け巡る。患者がお亡くなりになったわけである。こんな飼い殺しのような環境で,私は毎日,少し本を読み,たくさん眠った。FreeBSD を組み込んだ 日本 IBM 製 ThinkPad 560E で LaTeX や多言語計算機処理の勉強をしたり,C でロシア語単語統計プログラムを書いたりした。はじめて Web ページを作って,夜中にこっそりと,一般病棟にある ISDN 公衆電話にモデムのモジュラーケーブルを差し込んで,サーバにアップロードしたのもこのころである。
そんなある日,裏手の原始林を散歩して病室に戻る廊下に入るや,ベートーヴェンの第九が高らかに病棟に鳴り響いていた。長野五輪の開会セレモニーでの小澤征爾指揮,サイトウキネンオーケストラ(だったと思う)による演奏が,談話室のテレビから大音響で流れていたのだった。いつしか仕事も友人も忘れ惚けた私は,「人間界」との繋がりに突き上げる感動を覚えて,廊下の窓から,光を浴びた冬枯れの樹々を眺めた。