猛暑,豪雨,台風で疲れる夏。今年二月に息子が嫁をもらった。その可愛い嫁の生家のある金澤で,彼女の親御さんを招いてお食事会を催すことにした。八月十一日,立秋初候。俺にとって金澤は初めてであった。俺も憧れの地・金澤に親戚ができたわけか,と人生の数奇を思わずにおれなかった。
宿は金澤・湯涌温泉の「あたらしや」という,創業二百五十年の老舗だった。当初JR金沢駅周辺のホテルを探したのだが,嫁さんの親御さんのお勧めでこの宿を予約してもらったのである。金澤市内とはいえ,駅から南東に二十キロ以上離れた山手にあり,温泉らしい人里離れて鄙びた趣がよかった。玄関口の石畳に雌のカブトムシが這っていた。やはり地元の人の目は確かである。宿泊施設は平屋で九つしか客室がない。客にちらほら出くわすが,静かでたいへん気品のあるよい旅館だった。風呂に行ってもほかに誰もおらず,朝,夕ともども一時間の間,内湯と露天風呂を独占してゆったりとできた。湯殿の入り口に夢二の絵と見事な加賀友禅が飾ってあった。
湯涌温泉あたらしや
夜,温泉宿で息子夫婦,嫁さんの親御さん夫婦,嫁さんの甥っこ,姪っこ,俺と家内の八人で夕食会。金澤の地元の美味なる料理,日本酒をいただく。そのあと,湯涌温泉街にある,お義父さん行きつけのスナックに皆で行ってカラオケ。久しぶりに深夜まで歌って,大いに楽しいカラオケだった。
翌日十二日は,嫁さんの案内で金澤市内見物。
まず,湯涌温泉街にある竹久夢二の記念館。妻・たまき,恋人・彦乃の資料が興味深かった。夢二は彦乃とこの湯涌温泉に滞在し,強烈な時間を過ごしたらしい。「湯涌なる山ふところの小春日に眼閉ぢ死なむときみのいふなり」との歌を遺している。彦乃も画家であり,記念館には彼女の筆になる美人画も展示されていて,なかなかだと思った。
金沢湯涌夢二館/夢二と彦乃(パンフレットより)
そのあと,お義父さんの車で都心部まで送ってもらい,石川県立美術館。ちょうど広重展が開催中だった。金澤で広重の東海道五拾三次シリーズ全点を拝めるとは思ってもいなかった。ゴッホの模写とともに,そのもととなった広重の名所江戸百景・亀戸梅屋敷,花魁美人画も展示されていて見応えがあった。
石川県立美術館内にはル・ミュゼ・ドゥ・アッシュ KANAZAWA というミュージアムカフェがあり,石川県の有名なパティシエがプロデュースするスイーツで人気があり,嫁さんはそこに俺たちを招待したかったらしい。ところが,残念ながら,さすがに人気店でもあり待ち行列が連なり,待ち時間を想像して,そこでの休憩は諦めることに。また金澤を訪れたときにはきっと来よう。
兼六園を少し散策。加賀百万石の広大な庭園は午前の限られた時間で観て回るのは不可能である。嫁さんの案内で霞ヶ池周辺を歩き,徽軫(ことじ)灯籠で記念写真を四人で撮って,内橋亭の甘味店でかき氷を買い食い。
広重展/兼六園・霞ヶ池
ちょうど昼食時になり,嫁さんお勧めのフレンチレストランに行こうと店舗のあるしいのき迎賓館(旧石川県庁舎)を訪れるも,お店が予約でいっぱいで,残念ながら,そこでの食事は断念。嫁さんは次の一手と,近江町市場の海鮮丼屋さんへと案内してくれた。昼食時でさすがに人気店は長蛇の行列で,行列の長さで俺が決めたお店に入る。蟹,イクラ,海老,マグロなどなど海産物てんこ盛りの丼に,山葵と胡麻醤油ダレをぶっかけ,半分食ったあたりで次に鰹ダシを追いがけして食い,大満足。日本海の食材の豊かな金澤らしい一品だった。食い物も旨い,酒も旨い,都市景観も最高,女も美人とくれば,なんとも羨ましい地である。
食事のあと,かねがね行きたいと思っていた泉鏡花記念館に寄ってもらった。白い土蔵のある金澤の見事な旧家を改築した建物だった。鏡花は昔からの俺の憧れの作家でもあり,やっと訪ねることができたという感慨がより大きかったけれども,鏡花の自筆原稿やら初版本,遺愛品などの展示物は興味深かった。『天守物語』を巡るイベントのチラシを見たからというわけではないのだが,山本タカトと宇野亞喜良の優美でエロチックな画,戯曲原作と英訳からなる『天守物語』(エディシオン・トレヴィル,二〇一六年初版)を購入してしまった。
泉鏡花記念館
『天守物語』エディシオン・トレヴィル刊
記念館をあとにしてさらにてくてく歩いて,東山の東茶屋街を訪れた。ここは昔の殿方が藝者遊びをした茶屋が立ち並ぶ,金澤のなかでもとくに小京都を思わせる街並みで有名なところである。嫁さんのお勧めということで,志摩という茶屋を見学。国の重要文化財に指定された建物である。きらびやかな屏風や,簪・煙管などの藝妓の小物,美人画の掛る床の間に見入る。茶屋というと,永井荷風の小説に毒された俺なんかは,藝者呼んでドンチャン騒ぎしたあとは好みの藝妓としっぽりと床入り,みたいな下品な想像をしてしまうわけだが,ここは神楽坂でも新橋でも麹町でも浅草でもないわけで,もっとお上品・高級で由緒ある遊興だったのだろう。見学の最後に,茶の間で抹茶と繊細な翠の和菓子とをいただいて,古都の和を満喫した。いや,いい経験ができた。
東山・東茶屋街
東茶屋街・志摩にて
東茶屋街の入り口にある烏鶏庵で烏骨鶏ソフトクリームを買い食い。濃厚でびっくりするくらい旨かった。烏鶏庵というと,やはり嫁さんからかつてお土産でもらった烏骨鶏プリンに大いなる感銘を受けたものだが,ソフトクリームやカステラなど,プリンばかりがウリではないのがよくわかった。このスイーツは出色。
夕刻になり,帰る前に一目だけでもと,浅野川に沿った主計町(かずえまち)の古い街並みを少し歩いた。そのあと,タクシーを拾ってJR金沢駅に向かい,土産物を買い求め,新幹線で東京に戻る。短い時間ではあったが,嫁さんの案内で金澤を堪能することができた。必ずまた来ようと名残惜しかった。