霜降次候の今日の午後,東京藝術大学奏楽堂にて,妻とフランス室内楽を聴く。題して「フランスの名手たち『フォーレとドビュッシー』」。ドビュッシー晩年の傑作ソナタをすべて聴くことの出来るプログラムだった。
演目は,(1) クロード・ドビュッシー作曲 フルート,ヴィオラ,ハープのためのソナタ,(2) 同 チェロとピアノのためのソナタ,(3) 同 ヴァイオリンとピアノのためのソナタ,そして (4) ガブリエル・フォーレ作曲・ピアノ四重奏曲第1番ハ短調作品15。演奏は高木綾子(Fl),川崎和憲(Vla),早川りさこ(Hp)[ 以上 (1)],中木健二(Vlc),植田克己(Pf)[(2)],ロラン・ドガレイユ(Vln),津田裕也(Pf)[(3)],クリスチャン・イヴァルディ(Pf)[(4),Vln・Vla・Vlc は前に同]。
たいへん質の高い室内楽コンサートだった。演奏者は皆,東京藝大の先生であり,ソリストとしては日本ではそれほどもてはやされている演奏者ではない。しかしながら,ロックやポップスでは人気バンドのアーティストよりも無名のスタジオミュージシャンのほうがじつは遥かに腕がよい,それと同じように,先生たちの演奏は,クラシック界での人気はともかく,腕のたつ凄いアンサンブルだったのである。本来なら,ヴィオラはブルーノ・パスキエが担当する予定だったがドタキャンで,川崎和憲がパスキエの代役を担った。ところが,フルート,ヴィオラ,ハープのソナタ,ピアノ四重奏曲ともに,川崎和憲のヴィオラは,急遽任されたとはとても思われないくらい,フルートともヴァイオリンとも素晴らしい掛け合いを聴かせてくれ,感銘を覚えた。一流の演奏家による緻密な室内アンサンブル — これ以上の贅沢なことはないと改めて感じさせられた。
私はドビュッシー作品では管弦楽曲よりも声楽と晩年の室内楽のほうをずっと好んで聴く。今日の三つのソナタは彼の室内楽の精華である。とくにチェロ・ソナタが好きで,これほど色気のあるチェロの音色を引き出した作品はないとすら思っている。
今日の演奏会でも,フルート,ヴィオラ,ハープのソナタの牧神の戯れのようなフルートの歌い出しから,平和で長閑な気分に浸ることが出来た。ピエール・ルイスのエロティック詩『ビリティスの歌』にドビュッシーが付けた付随音楽のフルートと軌を一にする,ソナタの官能的で閑雅な音調。作曲家はソナタの曲想をピアノのキーをまさぐりながら思案している。その傍に,薄いショールを纏っただけの,乳房と陰毛の透けて見える美女がディヴァンに横たわり,彼に侍っている。時は第一次世界大戦の最中だ。そんな様を,私は勝手に想像してしまった。
ドビュッシーは私よりちょうど百歳年上で,このソナタが作曲された 1915 年はちょうど百年前であり,よってもって,作曲者は当時いまの私と同じ年齢だったわけだ。ちょっと感銘を受けた。ドビュッシーは 1918 年に亡くなったんだよな。ま,オレは 2018 年には死なないだろう。藝大奏楽堂前の庭にあったベートーヴェンの胸像に刻印された碑文を,ふと思い起こした — ARS LONGA VITA BREVIS 藝術は長く人生は短し。
演奏会のあと,川崎駅周辺で買い物をし,娘と待ち合わせて三人で焼鳥屋で飯を食った。息子は今日も仕事だった。川崎駅舎コンコース,銀柳街など,ハロウィーンの仮装をした若者がたくさんいた(昨年目にした渋谷の規模に比べるとごくごく慎ましいものだったのだが)。焼鳥を食いながらコンサートの雑談をした。妻はフォーレのピアノ四重奏がよかったらしい。「三楽章が『私だけのフォーレ』って感じのロマンティックなアダージョだったから」との由。「たしかにしびれるユニゾンが聴けたな。ヴァイオリンを弾いていたドガレイユさんの CD もっていて,ツィゴイネルワイゼン,ラヴェルのツィガーヌがなかなかいいんだな。今日のドビュッシーのヴァイオリン・ソナタは情熱的ないい演奏だったけど,ちょっと暑苦しい感じだったね。俺はもう少しさらっとしたほうが好きかな」。
ドビュッシーのソナタ集の CD として,ボストン交響楽団員によるグラモフォン輸入盤をあげておきます。1970 年代の古びた録音ではあるが,ジュール・エスキンの艶かしくゆったりとしたチェロは,数ある巨匠による名盤を押しのけて,私にとっては最高の名演である。