金盞香る立冬末候,幾分小春めく暖気に恵まれた十一月二十一日土曜日,東京・上野の東京藝術大学奏楽堂で,藝大フィルハーモニア合唱定期演奏会を聴いた。「モーツァルト『レクイエム』の系譜」と題したコンサート。演目,独唱は,次のとおり。ミヒャエル・ハイドン作曲・大司教ジギスムントのための『レクイエム』ハ短調 MH 155(1771 ザルツブルク)— 小玉有里花(S),小野綾香(A),友清大樹(T),青木海斗(B)。そして,ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト作曲・レクイエム ニ短調 K. 626(1791 ヴィーン,ロバート・レヴィン版)— 竹田舞音(S),山下裕賀(A),宮下大器(T),陳金鑫(B)。高岡健の指揮,東京藝術大学音楽部声楽科学生による合唱,藝大フィルハーモニアの管弦楽。
ミヒャエル・ハイドンはかの大作曲家ヨーゼフ・ハイドンの実弟で,モーツァルト父子とも親交のあったザルツブルク宮廷コンツェルトマイスターだったそうである。私ははじめてこの作曲家を知り,この曲を耳にしたわけだが,モーツァルトのレクイエムに直接影響を及ぼしたということをまざまざと感じさせる,堂々たる作品だった。古典期においては廃れつつあった対位法が多用された,絢爛たる教会建築にも似た構造に,とくに感銘を受けた。これはレコードを手に入れねば。
モーツァルトのレクイエム。この曲は,その謎めいた作曲の経緯,作曲家のあまりにも早すぎる死と不吉に観念連合する「死者のためのミサ曲」という性格と,未完成の草稿に対する後世のモーツァルト研究者の努力によるオーケストレーション補完(モーツァルトの助手・ジュスマイヤーによる補筆完成された版への訂正)の集団性,天才の遺した断片の理想的完成形を求める情熱の歴史とで,特別な曲になっている。
プーシキンの詩劇の名作『モーツァルトとサリエリ』の結びにおいて,サリエリの盛った毒により自分の死を確信したモーツァルトは「僕の REQUIEM を聴いてくれ,サリエリ」と言って,作曲中のレクイエムをピアノで演奏する。「天才と悪意とは相容れないものだよね,サリエリ。もう十分だ,僕は満ち足りている」とも語る。あとの台詞は場面の状況により「もうお腹いっぱい」というのが表面的な意味だが,明らかに,死を前にした天才の,諦観に満ちた充実感を示している。プーシキン — モーツァルトと同じように明るく軽やかな詩人であり,モーツァルトとほぼ同年齢で悲劇的な死を遂げた天才 — の解釈は,これは天才が自分のために書いたレクイエムなのだというものだろう。
『レクイエム』はこのようなドラマ性を伴ってモーツァルトファンのこころに響く曲になっているのである。
藝大フィルハーモニア,合唱,独唱も素晴らしかった。パリの痛ましいテロ事件の報も生々しい折でもあり,死者を悼む荘厳な宗教曲はこころに沁みた。ホールの最前列で聴いたためか,人間の声の音響の力強さに圧倒された。もっぱらオリジナル楽器によるモーツァルト演奏を好んで聴くようになってから,弦楽,管楽,合唱の音響的バランスにおいて室内楽のような小編成の演奏スタイルが好きで,弦楽オーケストラ,合唱団はそれぞれ,二十人くらいの編成がいちばんよいと思っている。そういう点からすると,今日の近代的オーケストラと合唱による演奏は,合唱団(四百人くらいいたのではなかろうか)の音響が少し大き過ぎる感じを覚えた。
Requiem aeternam dona eis, Domine: Et lux perpetua liceat eis. |
主よ,永遠の安息をかれらに与え, 絶えざる光をかれらの上に照らしたまえ |
Kyrie eleison. |
主よ,あわれみたまえ |
Pie Jesu Domine, Dona eis requiem. |
いつくしみ深き主,イエス, かれらに安息を与えたまえ |
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: Dona eis requiem sempiternam. |
神の子羊,世の罪を除きたもう主よ, かれらにとわの安息を与えたまえ |
家でも,モーツァルト『レクイエム』,私のお気に入りの盤二枚に針を落とした。ひとつは Christopher Hogwood の指揮,Chorus & Orchestra of the Academy of Ancient Music の合唱・管弦楽による英国 L'Oiseau-Lyre 盤,いまひとつは Sigiswald Kuijken の指揮,Nederlands Kamerakoor の合唱,La Petite Bande の管弦楽によるベルギー ACCENT 盤。いずれも 1980年代のアナログレコードである。現在手に入る CD のアマゾンリンクを設置しておく。M. Haydn の REQUIEM CD も出ているようである。
C. Hogwood, L'Oisearu-Lyre 盤 / S. Kuijken, ACCENT 盤
S. Kuijken, La Petite Bande
Accent Records (1999-01-01)
プーシキンの小悲劇『モーツァルトとサリエリ』を収録した翻訳本のリンクも設置しておく。優れたプーシキン研究者・郡伸哉先生による訳である。