九月九日重陽節。今日,大雨で川崎市になんと土砂災害避難勧告が出た。ズブ濡れになって帰宅し,熱い珈琲を淹れ,宮本輝の『春の夢』(昭和五十九年作品)を読む。
主人公・井領哲之は,やくざの借金取りから身を隠すために,大阪と奈良の県境に近い住道(すみのどう)のアパートに引っ越した。初日まだ電気が通らぬ闇のなかで柱に釘を打ち付けたところ,恐ろしい偶然で一匹の蜥蜴の腹を釘で貫いていた。まだ生きている。薄気味悪く放置するもなかなか死なない。いっそ殺してしまおうかとも思うそのうちに,水をやり,餌をやり,キンと名付けて,哲之は密かにこの不自由な蜥蜴と暮らすようになる。
心臓病に苦しむバイト先の先輩や,死んだ親父の借金を背負わされて怯えながら生きる母と己の姿をみつめるうち,哲之は,人の人生とは釘で貫かれた不自由なまま生と死の間で翻弄されるこの蜥蜴にほかならないと思うに至る。次の春の記念の日 — それはうららかな陽光のなかで恋人・陽子とはじめて交わった輝かしい日だ — に,キンの釘を抜こう — 哲之はそう決心する。釘を抜くことでキンは死ぬかも知れない。自由の生を再び生きはじめるかも知れない。
生と死,人間のウラとオモテのある姿を,愛情をもって描く,宮本輝らしい青春小説だった。親鸞の教えをしるした『歎異抄』,京都の古い庭と茶室などの道具立ては,私としては,抹香臭く着き過ぎていて,どうも素直に受け入れられなかったのではあるが,哲之と陽子の恋の物語,男の食い物にされる百合子のもの哀れなエピソードは,理屈抜きで面白かった。
この小説の感動にかられて,ちょっと漢詩七言絶句を作ってしまった。めでたい重陽節なのに雨に塗り籠められて陰鬱な今夜,暗く騒がしい情景で,『春の夢』の恋人たちの若々しく輝かしい情交を上書きしてしまっているところは,私の暗い趣向なのか…。
重陽節ニ宮本輝ノ春ノ夢ヲ讀ム — 功散人,Sept. 9, 2015.
重陽黑夜雨霏霏重陽 ノ黑夜 雨霏霏 タリ
冒褥風聲剝内衣褥 ヲ冒 ス風聲 ハ内衣 ヲ剝 グ
蜥蜴穿釘振舌尾蜥蜴 釘ニ穿 セラレテ舌尾 ヲ振 ル
可期闇闇春夢機闇闇 ト春夢 ノ機ヲ 期スルベシ
重陽節の闇夜 雨が乱れ降っている
褥を冒す風の音は 下着を剥いでゆく
蜥蜴は釘に貫かれ 舌と尻尾を振る
暗いところでひそかに 春の夢のときを待っているのだ
(1) 詩格: 七言絶句平起式平韻正格
(2) 押韻: 霏・衣・機(上平聲五微)
(3) 平仄スキーマ:
○ ○ ● ● ● ○ ○ 重 陽 黑 夜 雨 霏 霏 ● ● ○ ○ ● ● ○ 冒 褥 風 聲 剝 内 衣 ● ● ○ ○ ○ ● ● 蜥 蜴 穿 釘 振 舌 尾 ● ○ ● ● ○ ● ○ 可 期 闇 闇 春 夢 機
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