川崎市川崎区で中学一年生の男の子が遊び仲間に殺害された事件。十三歳で斬り殺されるなんて無惨この上ない。被害者にせよ加害者にせよ同じ年頃の子供を持つ親は,誰もがショックを受けているに違いない。
名古屋大学の女子大生による「殺してみたかった」殺人など,容疑者の人間性の在処が杳として見えない絶望的事件が,ここのところ多いように思う。とはいえ,私自身は,若年者によるこの手の凶悪事件を耳にしても,正直なところ,絶望的におかしなヤツはいつの時代の,どこの国にもいるものだとしか思わない。社会がどうの,教育がどうの,専門家がこういう事件が起きたときに発する警告やら提言には,どちらかというと,懐疑的な向きである。犯人・容疑者はただの絶望的におかしなヤツにしか過ぎず,共同体がこれを捕まえて排除・隔離するのが一番だと考える向きである。だから,罪を犯した少年・少女(十八歳といえばもはや子供でも,「青少年」でもない,まったき人格の持ち主であるはずだ)の「心の闇」など現実問題としてどうでもよい。ある本に書いてあったように(出典は忘れた),この「闇」は「病み」でしかない。治せるのなら治してやるべきなのだろうが,ま,十八歳にもなっていれば,死ななきゃ治らない性質のものかというのがなかば正直な思いである。それだけである。
じつは私が今回の事件に非常なショックを受けたのは,この絶望的におかしい十八歳とその取り巻きに対する怒りやら,憎しみやら,呆れやら,に起因するのではない。この事件の周辺にいる普通の,顔の見えない者たちがあまりに不気味なことである。
事件は地元・川崎で起きた。うちの娘なども LINE でいろんな情報が飛び交っていると話していたんだけど,事件が明るみに出,被害者が愚連隊との付き合いで不登校になっていたとのニュースが流れたのとほぼ同時に,まだ加害者が何者なのかもまったく報道されていないうちから,加害者(実際にその後逮捕された少年たち)の名前,顔写真などがネットで拡散されていたらしいのである。つまり,周囲の人間がすぐさま加害者を特定できるくらい,被害者少年の追いつめられていた姿が可視化されていたわけである。なのに,子供(被害者はまだ十三歳で人格が定まっていない子供だ)が死ぬまで放置したわけである。これこそ残酷の極みではなかろうか。十八歳の極悪少年とその付和雷同的子分どもも憎たらしいが,世間はもっと憎たらしい。
「『容疑者』家族の顔写真投稿,自宅の動画を撮影... 川崎市の中学生殺人,ネットで『私刑』が横行」(J-CAST 配信)— このような記事を眼にして思うところは — この「私刑」執行人たちは,義憤に駆られているというよりも,むしろ事件を面白がっている。パク・クネ,セウォル号事件の七時間にパクパク,クネクネなんて言って面白がっているのとなんの変わりもない。俺がこの被害者少年の,あるいは加害者少年の親だったら …… と思うと胸が掻きむしられる。なんか,絶望的におかしいのはどちらなんだろうか。どうも,世間はこのようにできているらしい。
今朝の朝日新聞・天声人語は,「周囲の大人が気がついてやれなくて遼太くんごめんね」,風のコラムだった。なに言ってんだ,社会派気取りの朝日め。周囲は — 学校の先生をはじめ,友人たちだって,近所の人だって — うすうす知っていたのだ(だからこそ「事件」になったらすぐに,見て見ぬふりをやめて,「世間」を代表して,犯人と思しきヤツらの個人情報をバラまく匿名正義漢が出て来るわけだ)。川崎市というガラの悪い土地では(ホント,想像以上にガラが悪い。俺が育った大阪・河内もそうだったが…),グループ内のいじめ・暴力沙汰・犯罪強要(「腹減った。おい,お前,万引きしてこい」に類する,悪事で強める薄汚い絆)は日常茶飯なところがある。でも,殺しまではしないだろう,ってか?
じゃ,そういうときどうすべきなのか。俺ならどうするか。どうすればこの十三歳を救えただろうか。十八歳のほうはもはや手遅れなので,どうでもよいと仮定しよう。この腐って弱った共同体への信頼のないなかで,共同体のルールを無視して,そうした絶望的におかしい十八歳の個体に対して(叱るとか,指導するとか,が通用しない個体に対して),それこそグサリと「私刑」を加えるべきか。それとも,共同体に埋没して,指を銜えて,成り行きに任せる(つまり,警察権力がなんとかしてくれるまで傍観する)しかないのか。
と,絶望的におかしいのは — 事件の周辺にいた人たちというよりも — 俺たち自身のようである。「ほったらかして遼太くんごめんね」という自己嫌悪がショックの一番の出所である。イスラム国のテロリストも怖いが,こっちの自画像のほうがもっと怖い。