近松浄瑠璃集を少し再読。1958 年刊の岩波の旧体系本。心中世話物『心中天網島』,『女殺油地獄』がとくに好きである。
『女殺油地獄』はドラ息子の超ド級の自己中犯罪ドラマ。主人公は女郎買いの金欲しさで油屋の女房に金を無心するが断られ,その挙げ句,油まみれで彼女を惨殺する。ここで,主人公はいかなる意味においてもなんの共感も誘わない。色ボケの狂気がムキ出しになっている。凄惨のひとこと。
しかしながら,なんでこんなバカで素っ頓狂な話にほろりと — そう,ほろりと — 来るのか,ってところがまさに近松のパンクなところなんである。バカが極限にまで突き詰められると,一種独特のもののあはれに襲われることがある。
隠に似て隠にあらず,賢に似て賢ならず,ものしりに似て何もしらず,世のまがひもの — 近松の辞世である。こんなパンクな古典を有するのはわが国だけではなかろうか。
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近松の『女殺油地獄』をもとにしたピンク映画のリンクも付けておきます。
これ,近松の原作とは大きく筋が異なり,油売りの女房の浮気物語である。原作は油屋の女狂いのドラ息子の殺人事件なのに対し,映画は,稼業にも子育てにも熱心な女房が女郎の唆しがもとで平凡な主婦であることに空しさを覚え,女としての欲望のまにまにドラ息子との性愛に身を委ね,破滅してゆくというものである。
原作ではドラ息子の狂に焦点があるのに対し,映画ではお吉の狂に焦点が当てられる,原作を知らないとわからない位相のズレがたいへんに面白かった。