今日 11 月 22 日から小雪初候,虹蔵れて見えず。ここ数週間,左側頭の偏頭痛に悩まされ,午前中,散歩を兼ねて妻と二人で武蔵小杉の病院に行く。雲一つない快晴,暖かい小春日和。病院の近くにある喫茶店で辛いビーフカレー,ガーリックトーストを食す。
樋口一葉の『にごりえ』,『たけくらべ』を読んだ。樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』岩波文庫,1999 年改版。一葉,奇蹟の十二ヶ月の遺産。とくに,『にごりえ』は,切なくて途方に暮れてしまうくらい,哀しく美しい作品である。自らの思いを言語化することのできない低社会層の女の,複雑な心の陰翳を,江戸の人情本の伝統にある,和文脈のしなやかな語りで描く。
銘酒屋(飲み屋を装いひそかに売春を行う店)の私娼である主人公・お力は,かつて自分に入れ込んで散財し仕事を失いすかんぴんに落ちた客・源七によって,無理心中のような形で殺されてしまう。作品の語りは,お力が金持ちの客・結城朝之助に気があるのか,あるいは,お力の仕事仲間・お高が冷やかすように,源七にいまだに未練を残しているのか,定かではないような描き方をしている。
いや。お力にとって,朝之助も,源七も,ただの客でしかなかった。どちらも彼女にとっては対岸に棲む人間である。というよりも,お力は世界そのものが彼岸にあるかような絶望感に捕われている。私娼の身上を運命と諦めて生きて行くしかない思いがすべてのようである。
[ 中略 ] なれど我身の上にも知られまするとて物思はしき風情,お前は出世を望むなと突然(だしぬけ)に朝之助に言はれて,ゑツと驚きし様子に見えしが,私等が身にて望んだ処が味噌こしが落,何の玉の輿までは思ひがけませぬといふ,嘘をいふは人に依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか,思ひ切つてやれやれとあるに,あれそのやうなけしかけ詞はよして下され,どうでこんな身でござんするにと打しほれて又もの言はず。
体を売って生きるしかない閉塞感に苛まれる人間を前にして,「お前は出世を望むな」とか,「嘘をいふは人に依る始めから何も見知つてゐるに隠すは野暮の沙汰ではないか,思ひ切つてやれやれ」などと,臆面もなくずけずけ言う朝之助。お力への愛欲で身を持ち崩し女房に逃げられた挙げ句に自分勝手な無理心中を強いる源七。どちらも最低の男に見える。
二人は買春客の両極的タイプである。源七は売春婦の恋愛演技を真に受け,金を溶かして破滅する愚者。朝之助は売春婦を,客の歓心を惹くウソに塗れた遊び相手だと,心の底で蔑む偽善的実際家。これら愛欲に群がる男と,それを生業として受け入れ愛欲を演ずる女との,心の隔絶感がいいようもなく哀れである。『にごりえ』論には,お力が朝之助を愛したかのような解釈をなすものがあるが,笑止の愚論というべきである。作品の構造がまったく見えていないというべきである。
しかしながら,この作品の本当の凄さは,思うに,私娼・お力と,源七の貧乏女房・お初との視点から,行き場を失った女のもの思う姿を描いた点にある。このアプローチがいかに現代的かということは,『にごりえ』を,たとえば,江戸人情本,近松門左衛門の心中もの,永井荷風の花柳小説,泉鏡花の女妖怪異潭と読み比べると,はっきりとわかる。一葉以外のこれらの作品では,華魁,遊女や銘酒屋私娼は,徹頭徹尾,男から見られ愛される存在でしかなく,「なにかを考え,思う」人間としては描かれなかった,としかいいようがない。
もうひとつ,『にごりえ』の凄さはそのリアリズムにある。江戸の近松の時代ならば遊女が愛の積極的主体となり世の不条理の論理的かつ破滅的な解決として「情死」というカタルシスがありえたかも知れないが,一葉の現実的眼差しを通すと,客と売春婦との相思相愛のロマンスはありえなかった。近松の情死はリアリスティックな「無理心中」に変容したのだ。
さらに,一葉は,お力の主体的愛なんぞは語ろうとはせず,リアリスティックにも,徹底的に恋愛演技のプロフェショナルの相貌を女主人公に与えた。
[ 中略 ] 口奇麗な事はいひますともこのあたりの人 [ 私娼:私註 ] に泥の中の蓮とやら,悪業に染まらぬ女子があらば,繁昌どころか見に来る人もあるまじ,[ 中略 ] それかと言つて来るほどのお人に無愛想もなりがたく,可愛いの,いとしいの,見初めましたのと出鱈目のお世辞をも言はねばならず,数の中には真にうけてこんな厄種(やくざ)を女房にと言ふて下さる方もある,持たれたら嬉しいか,添うたら本望か,それが私には分かりませぬ……
お力は客を,恋愛対象なんぞではなく,金を払って己を抱く男としてしか見ていない,恋愛演技のプロフェショナルである,ということ。このお力の独白はこれを如実に示している。美しい娼婦のイメージに,男性の視線にのみ立った,根拠のない,自分勝手な感傷的ロマンスを紛れ込ませないではおれない男性文学には,決して見いだされない醒めた現実性が,思うに,ここにはある。新時代の新しいリアリスティックな人間像がある。
その意味で,鷗外,漱石よりも前に「もの思う」リアリスティックな新しい女性像を — しかも,わずか二十三歳で — 創造した樋口一葉は,西欧文学に毒されていない点と合わせても,日本近代文学の奇蹟である。
『にごりえ』,『大つごもり』など,樋口一葉作品は著名な作家による現代語訳でも楽しむことができる。一葉は,文体そのものが魅力なのだが,明治文学の擬古文に慣れない若い人には理解しづらい面もあり,現代語訳でも十分に楽しめると思うので,リンクをあげておく。