柳父章『翻訳語成立事情』— あるいは,三島由紀夫の豊穣なる空虚

柳父章の著した『翻訳語成立事情』(岩波新書,1982年初版)は,西欧から輸入された言葉が氾濫する日本語を考えるに,たいへん興味深い本である。帯文に,「日頃何気なく使う翻訳語の背後に広がる異文化接触の緊張を描き,短い紙幅に驚き満載。読む前と後とでは,言葉に対する姿勢が違ってくるだろう」との,中国史家・岸本美緒氏による紹介文がある。本書の美点を端的に素描している。

本書は,幕末から明治にかけて翻訳のために造られた新造語と,翻訳のために新しい意味を与えられた語について,文献学的・構造主義的アプローチでもって,文献に即して具体的に,考察している。前者に属する語として,「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」を,後者のそれとして,「自然」「権利」「自由」「彼(彼女)」を択んで,それらが使われた文脈における意味を分析している。

柳父は,伝統的な文化輸入国(かつては中国からの,幕末以降は西欧からの文化輸入国)・日本においては,「カセット効果」がこれら翻訳語の特徴である,と指摘している。「カセット効果」とは柳父の比喩的用語である。外国語に対し宛てられた「四角張った文字」からなる翻訳語が,その中味・意味内容がはっきりしなくても人を魅了する作用がある,ということを示す。柳父はそれを次のように説明する。

私たちの国は,一貫して翻訳受け入れ国であった。翻訳されるべき先進文明のことばには,必ず「穏なる日本語」〔日常的に使う言葉:私註〕で表現できない意味がある。重要なことばほどそうである。福沢がここで言っているような,完全に「申分なき訳字」は,「穏なる日本語」の中には,実はない。そこで,そのとらえ難い意味を,「四角張った文字」じたいにまかせるのである。「人民各箇」も,「一身ノ身持」も,結局そうである。
 ここで重要なことは,こういう「四角張った文字」の意味が,原語の individual に等しくなるのではない,ということである。これらのことばをいくら眺めても,考えても,individual の意味は出てこない。だが,こういう新しい文字の,いわば向こう側に,individual の意味があるのだ,という約束がおかれることになる。が,それは翻訳者が勝手においた約束であるから,多数の読者には,やはり分からない。分からないのだが,長い間の私たちの伝統で,むずかしそうな漢字には,よくは分からないが,何か重要な意味があるのだ,と読者の側でもまた受け取ってくれるのである。
柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書,1982年,36-7 頁。

私としては「三島由紀夫のトリック」というサブタイトルの付いた「美」の分析がとくに面白かった。ここで柳父は,小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというものはない」の名言にあるとおり,古来日本人が抽象的な美の概念とは疎遠だったことを素描したあと,三島由紀夫における「美」という翻訳語の「カセット効果」を分析している。三島は,評論のなかでは「美」をつまらないものであるかのように語る一方で,小説のなかでは人を支配する恐ろしい力として「美」を語っている。ここに柳父は三島由紀夫の言語トリックを指摘する。

この二つの「美」の語り方は,明らかに意識的である。二つの「美」の使い分けによって,もっとも効果的に,三島は,その読者に対して「美」を操作しているのである。
 読者は,小説の中で,「美」が,とてもだいじな,おそろしいような存在である,と感じさせられる。他方,その舞台裏にまわって見せるかのように,「美」そのものについては,三島は,つまらないものだ,と語る。読者は,どちらから見ても,「美」の正体は分からない。そこでいっそう惹きつけられ,意味あり気で,それは底知れぬ彼方にひそんでいるように見えてくるのである。
同書,82 頁。下線強調は引用者(私)。

三島由紀夫は,ひとことで評すると,「豊穣なる空虚」である。徹底した言葉の演技者であり,現実世界のレアリアなどどうでもよかった部類の作家であって,中味がないからこそ豊かな輝きを発散する文学的モニュメントである — 私自身は三島由紀夫をそのようにみている。柳父のこの分析を読み,「カセット効果」ほど三島由紀夫の豊穣なる空虚の本質,言語トリックの舞台裏を言い当てた言葉を,私は知らない。

かくして,柳父章『翻訳語成立事情』は近代日本文化の見事な特徴描写でもある。それはこんにちにおいてもインパクトを失っていない。現代フランス批評の日本語訳は隠語,符牒,比喩だらけでチンプンカンプンなのにインテリぶった人たちにむやみやたらと持ち上げられている — 柳父の謂うカセット効果は,現代の日本にもしかと存在し,絶大にして滑稽なる影響力を失っていない,ということではなかろうか。