新宮正春『芭蕉庵捕物帳』

主な勤務地が渋谷になってから,折りをみて歩いては,古本屋やレコードショップ,お気に入りの銘柄を置いている煙草屋などを探している。渋谷にも宮益坂あたりまで行けば青山学院の近隣でもあり古書店がありそうなんだが,ちょっと遠い。勤務地に近い駅西側はどうか,道玄坂界隈を歩いてやっとひとつ古本屋を見つけた。

「古書センター」なんて店名なのに,古風で狭苦しい店構えだった。文学・藝術関係がメイン。当然のごとくポルノグラフィの一角もあって,ビニ本,エロサブカル本,エロビデオが四分の一程度のスペースを占めていた。ワゴンセール・百円均一のコーナーから,『江戸浮世草子シリーズ 英泉 — 真情春雨衣』(昭和六十年,ミリオン出版)と新宮正春著『芭蕉庵捕物帳』(平成八年,福武書店)の二冊を購入した。

前者は,絵師・渓斎英泉の名高い春画と東都吾妻雄兎子(とうとあずまおとこ)の戯作からなる艶本(えほん)。春画に修正が施されており(もちろん公序良俗のため)かつ印刷の汚い,無惨な粗悪本なんだが,百円じゃしょうがねえ。こちらはまた機会を改めて。本の一部画像を掲載しておく。

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江戸浮世草子 英泉 — 真情春雨衣

新宮正春著『芭蕉庵捕物帳』は,俳聖・松尾芭蕉が名推理を繰り広げるという江戸時代ものミステリーである。時代考証に一定の正確さが求められる時代小説に,歴史上の著名人が登場するとなると歴史的実証性もさらに吟味されるところではある。しかし,本作品では歴史的・文学史的真実らしさは二の次で,作者は,判明している史実に矛盾しない範囲で,芭蕉とその門人の謎めいた履歴を元に奔放な想像力を働かせて,伝奇ミステリーに仕立て上げている。文学はそもそもフィクションなのだから語りが面白ければよいのだ。

作品の主人公は本所廻同心・笹木仙十郎。幕府権力側に属するが,三十俵二人扶持でかつ毎年役回りを更改しなければならない,将来の不安定な警察役人・下級武士でしかない。それでいて,ある程度のしゃれ者で,本所深川の鯔背な辰巳藝者を情婦にして世を楽しむ世俗者であり,同心の役得として袖の下を平気で取りもする。「正義の志士」からはほど遠い存在である。しかしもう一方で,五代将軍・徳川綱吉の悪名高い「生類憐みの令」の時代を憂える心情の持ち主でもあり,反幕府権力側の性質をも備えた,いわばマージナルマンである。こういう主人公の境界不分明な性格設定が偏りのないフラットな視点を作品に導入する契機になっているのである。仙十郎は,犯罪の捜査の過程で偶然に芭蕉の洞察力に助けられ事件を解決してから,芭蕉の弟子となって俳諧を嗜み,芭蕉の推理力に頼みつつ事件に挑む。

作中の芭蕉は,伊賀上野出身で江戸に出て来て治水事業に携わったのち卒然と本所芭蕉庵で貧乏生活に入ったという謎めいた履歴から,暗に伊賀の忍び者の系譜を纏わされている。芭蕉の甥・桃印は隠密的暗殺を働く。桃青,桃印の号の「桃」字が,服部半蔵と並ぶ伊賀者の名門・百地三太夫の「百(もも)」と関係付けて解釈されている。路通は,乞食同然の生活をし門人に毛嫌いされながら芭蕉にはたいそう可愛がられたという史実から,芭蕉の指示で隠密行動をなす懐刀のように描かれている。曽良も幕府隠密として白河藩の御家騒動の探りを入れるために「奥の細道」の旅に同行した,というストーリーになっている。

作品の面白さは,こうした隠密的・伝奇的雰囲気のなかで,犯罪・事件の細部の描写に芭蕉・蕉門俳人の俳諧が心憎い形で裁ち入れられているところにある。たとえば,「鎌いたち」の段で,暗殺者を返り討ちにする際に芭蕉は彼に言う —「おぬし,暁の念仏はじむる蛙かな,という俳諧を知っておるかの。[ 中略 ] ま,おぬしなどには分かるまいが……」。句が,「おぬしは間もなく死ぬ,そしてその後の暁に蛙どもがおぬしのために念仏を唱えはじめる」という,物語独自の意味に転化されているわけだ。この句は芭蕉の弟子・扇雪の句である(1686 年刊行の蕉門句合『蛙合』に見える)。また「薄紅葉」の段では,「色付くや豆腐に落ちて薄紅葉」という芭蕉の句が,屈強な相撲取りが張り手を受けて白い膚に残った赤い手型の生々しさに変奏されている。

このように,『芭蕉庵捕物帳』ではフィクションが芭蕉・蕉門俳諧の実作に独自の陰翳を加えており,新しい詩的想像力の源になっている。歴史的事実などどうでもよいと思わしめる妙味がある。

芭蕉庵捕物帳 (福武文庫)
新宮正春
ベネッセコーポレーション