日本では,終戦記念日,つまり第二次大戦終結の記憶の日を,八月十五日としている。国際法的には日本国が連合国に対し降伏文書に調印した日・九月二日こそが終戦の日なのだろうが,八月十五日正午に天皇陛下が「大東亜戦争終結ノ詔書」を国民に向けて朗読せられたことこそがカイロス(記憶されるべき歴史)になっているわけである。
今年の終戦記念日は出勤日だった。しかし顧客も,弊社社員もお盆休みの者が多く,顧客先SE室はガラガラ,予定されていた打ち合わせを一つ済ませ,事務処理を終え,急ぎの懸案事項もないので,早めに仕事を切り上げた。渋谷・道玄坂はいつもと変わらず若者が浮かれ歩いていた。風が強い。蟬時雨。
帰宅して,熱いブラックコーヒーを淹れて,読書。ここのところ小沢昭一の『雑談にっぽん色里誌』二巻,『平身傾聴・裏街道戦後史』二巻を読んでいた。これらは戦前から戦後にかけての売春婦,吉原妓遊太郎(遊郭・遊女の世話役),幇間,ストリッパー,女衒,ポン引き,淫売宿経営者,ブルーフィルム監督などなど,性産業・裏稼業の提供者側と,女遊びで名を馳せた芸人,スワッピング会員夫婦など客側と,両側の人々に踏み込んだ対談集である。『平身傾聴...』では永六輔がアシスタント的にインタビューに付き添って原稿をまとめ,捕捉的なエッセイを書いている。1970年代前半の本なので,いまからすれば時代の風俗が幾分霞んでいるわけだが,人間の真実の記録として強く惹き付ける魅力を失っていない。
小沢昭一のこれらの著書の凄さは,日本の好色道に関わった人たちから,まるで「スケベの興味本位」で話を訊いているようにみえながら,記録として真実味のある事柄を対談者から引き出し,人間の強さ,弱さ,哀しさを否応なく読者に感じさせてくれるところである。それが可能となったのは,何らかの教訓を得たい,あるべき姿は何か,などという下劣な下心が小沢にはないからだと思う。
終戦記念日だからか,戦争を巡る「ギョーカイジン」の消息に私の目が行く。『雑談にっぽん色里誌 — 仕掛人編』に「七十歳の現役春婦伝」という段がある。その主役,対談者である神田千代さんは,戦前は深川・洲崎や名古屋の遊郭で,戦中は中国で日本人相手に売春し,終戦後は小倉で米兵相手に体を売り,その後も岡山,広島で駅をねぐらに街娼をし,対談当時七十を過ぎても大阪・釜ヶ崎で客を取り,と売春稼業五十ウン年という強者である。小沢昭一との会話は元気いっぱいで,まったく暗い影がない。それでも,終戦直後,やっと大陸から日本に引き上げて来た山口県幡生で,中国でいっしょになった夫の看護をしていた病院で,ロシアの進駐兵三人に輪姦されるくだりは,心が痛む。ちょっと長い引用だけど了承いただきたい。
千代 そこには,あの,窓からすっかり海が見えてね,で,病院が一軒だけボーンと建って,大きな病院がね,そこに入院して……。
小沢 そこでずうっと看護して……
千代 ええ,わし,看護しとったですね。[ 中略 ] みんな退院して出て行ってしまってね,こういう長細い,畳が二十畳ぐらい,そこにある男が一人だけ残って入院しとった —。[ 中略 ] その男がね,あの,寝たふりしてね,見とったらしいんだね。
小沢 ああ,なるほど。
千代 知らん顔してね。いやあ,そうだけんが,あんた,それが窓からね,飛び込んで入ってきて,ロシアの兵隊が。[ 中略 ]
小沢 ロシアの兵隊ってのは,進駐しとったんですか。
千代 いや,あれ,いくさに負けたでしょ。
小沢 ええ。
千代 ほしたら,いちばん最初に,アメリカでなくて,ロシア!
小沢 ああ。
千代 ロシアの兵隊が三人 —。
小沢 それで無理やりですか?
千代 (力をこめて)そうですよ!
小沢 三人よってたかって……。[ 中略 ]
千代 あばれたりね,いやだっていうたら,殺すって,日本語でいう。
小沢 こわいねえ。
千代 いや,あの当座は日本が敗戦だから,日本が勝っておったら,外地の女にも同じようにする。
小沢 ハハ,まあね。
千代 戦争に負けたから。
小沢 それで,もう一人いた人が寝たふりしてて,それを見てて……。
千代 それをね,寝たふりしとって,院長に朝になってからしゃべった。
小沢 ほう。
千代 それで院長は,男 [ 私註:千代さんの旦那 ] が帰ってきたら待ちかまえてね,それをいおうと思って待っておった。帰ってきたから,男は呼びつけられてね,「あの女,とんでもないやつだ」,ねえ,「外人に肉体関係をさした。あんなもの,人の奥さんになるだけの資格がないんだ。[ 中略 ] だから離縁して帰しちまえ」。さあ,そういうもんだからね。男はその気になって,離縁 —。
輪姦されたことに対する「戦争に負けたから」という総括は,哀しくなる。戦時中は戦地で兵隊の男が死ぬものだが,女に対しては戦後にも引き続き戦禍が襲うわけである。このくだりを読んで「ロシア人というのはなんとろくでなしなんだ!」と憤る者がいるとすれば,お前こそ何もわかっていないと言いたくなる。千代さんその人が「日本が敗戦だから,日本が勝っておったら,[ 日本兵は ] 外地の女にも同じようにする」と言っており,この千代さんの記憶の焦点は,輪姦そのものの告発ではなく,それを傍観し,告げ口する日本男子の下劣さに呆れたところにある。この話で,おそらく死んで地獄に落ちるのは,ロシア兵というよりもむしろ,寝たふりをしていた男と院長である。
敗戦国日本の情けない男のこの姿は,少しも個別的・偶発的なものではなく,きわめて象徴的であると思う。というのは,これと似たようなシチュエーションの映画を見て愕然とした思いが蘇るからである。1950-70 年代に社会派ポルノ映画監督として名を残した武智鉄二の 1968 年公開作品に『戦後残酷物語』(路加奈子主演)というのがある。この作品は,ある女性が米兵に輪姦されて以来,米兵相手の売春婦に身を落とし,米軍将校の情婦となるが捨てられ破滅してゆく,という絶望的な物語である。小野年子と五島勉の共著を原作とする自伝的映画である。
女主人公・小野年子は,ある夜,日本人の警官が家を訪ねて来て「アメリカ兵が呼んでいるので来い」と言う。彼女はしかたなく警官の言うのに従って米軍の車に乗るのだが,そのまま人気のないところへ連れ去られ三人の米兵に強姦されてしまう。映画の最後で,病に倒れた年子が旧知の医師にこのときを回想して言う台詞がこうである —「私を強姦したアメリカ兵よりも,わかっていて私をアメリカ人に引き渡したあの日本人警官のほうが,ずっと,ずっと憎い」。
アメリカ兵よりも黙って状況につき従った日本人が憎い — 千代さんとまったく同じである。敗戦国の男は負けたあともダメ男。自虐的になるのは当たり前である。え? 逆に,こういう話に出くわして,「日本だけでなく,他の国の男だって同じだ」と開き直るってか? それは当事者のこころの痛みをまったく理解しない人でなしではなかろうか。橋下大阪市長,NHK の籾井勝人会長,同じく NHK の経営委員・百田尚樹みてえな野郎を見ると,俺は虫酸が走る。
小沢昭一の奥深さを書こうと思ったのに,終戦記念日にちなんで話が飛んでしまった。また改めて。
『戦後残酷物語』はポルノグラフィである。こんな残酷なポルノは,いまの優しい潔癖な草食日本人には絶対に撮れない。1968 年公開のモノクローム映画でも,バーンとおっぱいが露出している。こっそり一人で観てください。