シェイクスピア『ロミオとジュリエット』

古典というものは,ロマン主義が大衆化した現代において,一面的なイメージで捉えられる場合がある。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』は,オリヴィア・ハッセーとレナート・ホワイティングの主演した映画(1968 年)で世界中の若者の記憶に刻み込まれた。映画は,対立し合う「権門」の障碍ゆえに個としての人間的「純愛」が犠牲になるという,悲劇的要素ばかりをロマンティックに強調していた(これは確かに原作の根幹にあるテーマではあるが)。こうしてシェイクスピア作『ロミオとジュリエット』に,ロマンティックな純愛悲劇の一面的イメージを抱く人が多いのではないだろうか。

私も『ロミオとジュリエット』を読むまではそのようなイメージを持っていた。ところが,実際のシェイクスピアの悲劇は喜劇的要素に満ち溢れていて,下品で,猥褻で,諧謔的な台詞がいたるところに鏤められていることに驚いた。そして,この褻の要素こそが,一族同士の対立から論理的に導かれる愛のカタストロフィーの厳粛さ,運命性,ものあわれさを高めていることに。

乳母 [ ... ] ばあやはよそへ回って
 繩梯子をとってきますからね。暗くなるとすぐ
 あのかたがそれを登って愛を営む小鳥の巣へ。
 私はお嬢様のお喜びのために汗かき役,
 でも夜になれば汗をかくのはお嬢様の役。
シェイクスピア全集『ロミオとジュリエット』小田島雄志訳,白水社,1983 年,98 頁。
乳母 [ ... ]
 お立ちなさい,男でしょう,立つんですよ,
 ジュリエットのために。さ,ピンとお立ちなさい,
 なぜおお,おお,と悲しみの輪に入りこむのです?
同書,130 頁。

これらの断片は原典では次のとおり。Romeo and Juliet: Entire play - http://shakespeare.mit.edu/romeo_juliet/full.html から引用する。

Nurse
 ... I must another way,
 To fetch a ladder, by the which your love
 Must climb a bird's nest soon when it is dark:
 I am the drudge and toil in your delight,
 But you shall bear the burden soon at night.
act 2, scene 5.
Nurse
 ...
 Stand up, stand up; stand, and you be a man:
 For Juliet's sake, for her sake, rise and stand;
 Why should you fall into so deep an O?
act 3, scene 3.

bear the burden soon at night(逐語訳: 間もなく夜になったら荷を負う)を小田島雄志は「夜になれば汗をかく」と訳している。第一幕第四場でマーキューシオが口にした「あおむけに寝ている娘をおさえつけ,重い荷物をのっけることを教え」という卑猥な比喩からしても,「荷」とは男の体のことであって,よってなにゆえに汗をかくのか,訳のほのめかすところは明らかなようになっている。乳母の台詞のかくなる卑猥な性質からして,「お立ちなさい」も「そのように」理解できるように訳されている。原典をみると,fall into so deep an O: ひとつのO(オー: 穴のような形のもの)に深くハマる — なんてまったくのエロである。もちろん,O には悲嘆に暮れる嘆息の「オー」の本意もある。小田島はこれを「おお,と悲しみの輪に入りこむ」としている。

シェイクスピアの日本語訳は,— 英国の古典的大劇作家を日本の読書人に提供する責任感からか,訳者が真面目過ぎるからなのか,冗談を解さないからなのか,— ものによっては猥雑な要素がまったく汲み取れないみじめなものもある。上記の部分の大山敏子訳を見てみよう。

乳母 [ ... ] 私は梯子をとりに
 別のところへ行かなくてはなりません。その梯子で
 あなたのいとしいおかたが,暗くなったころに,小鳥の巣に登っていらっしゃいますわ。
 私は縁の下の力持ち,お嬢様のおよろこびになることならなんでも骨折っていたします。
 でも今夜になりますと,お嬢様がお荷物をお持ちにならなくては。
シェイクスピア『ロミオとジュリエット』大山敏子訳,旺文社文庫,1966 年,96 頁。
乳母 [ ... ]
 さ,さ,お立ちなさいませ。あなたも男のかたでございましょう,さ,お立ちなさいませ。
 ジュリエット様のために,お嬢様のために,起きてお立ちになってくださいませ。
 どうして,そんなに深い悲しみの中にしずんでおしまいになるのですか?
同書,128 頁。

大山敏子訳では,猥褻なニュアンスがまったく感じられない。「今夜になりますと,お嬢様がお荷物をお持ちにならなくては」なんて「私の代わりにお嬢様が自ら梯子を扱わなければならない」という解釈である。新潮世界文学全集の福田恆存訳も,大山のクソ真面目とあまり変らない。かくして,訳し方によって悲劇の諧謔的緊張がまったく変って来るのである。私は学生時代,幸いにも,シェイクスピアの褻の要素を心憎いまでに訳出してくれた小田島雄志訳で,晴と褻の強烈な悲劇的緊張感と立体感とに溢れるシェイクスピアに触れることができた。

Post Scriptum

このところ妻がシェイクスピアを集中的に読んでいた。卑猥な台詞に — やはり — 興じていた。「『ロミオとジュリエット』なんて純愛ものなのに,『今夜はお嬢様が脚をお上げになる番』なんてエロい台詞がいっぱい出て来るのよね」— そんな台詞あったっけかな,と私は少し気になって再読したわけである。「おい,読み直してみたけど,脚をお上げになる,なんてなかったぞ。『今夜汗をかくのはお嬢様の役』じゃねえか?」と妻の言を訂正してやった。アシヲアグ(asi-wo-agu),アセヲカク(ase-wo-kaku)— 確かに,音韻も,猥褻ということでも共通しているけれども,妻は相当思い違いが激しい。

『ロミオとジュリエット』は音楽においても名曲を生んでいる。チャイコフスキーの一曲はなかでも抜きん出ている。ま,チャイコフスキーのシェイクスピア解釈も,ロマン派全盛の時代に相応しく,悲劇的色彩一色であって,諧謔的要素がまるでない。でもって毒がない。彼の「名作」オペラ『エヴゲーニイ・オネーギン』(私にとっては,まったくつまらないオペラ)とまったく同じである。十九世紀ロマン主義全盛期には,プーシキンの軽妙・洒脱・諧謔はどうも理解されなかったと思われる。プーシキンは,当時の文学の不毛な貴族的お上品に反発するに,シェイクスピアやラブレーの「下品さ」を意図的に作品に組込んだのである。

私のベストセレクションは,クラウディオ・アバドが 1970 年代にボストン響を振って録音したもの。アバドはこれ以降も何度かこの曲を録音しているけれども,思うに,そのどれもがこの若かりしころの最初のグラモフォン盤には遠く及ばない。もちろん,売れているのはベルリン・フィルを指揮したものなのだが。名演は自分の耳で選ぼう!