ここのところ『断腸亭日乗』をはじめ永井荷風の作品を文庫本で読んでいたのだが,その他数ある短編をちょこちょこ本屋で漁るのも面倒なので,古書の全集を購入してしまった。岩波書店が 1971-
岩波書店はその後『新版 荷風全集』を刊行し,2009-
表記とは作者の個性を超越した文化的統制であると看做す限りにおいて,岩波書店の判断は正当なものだし,現代人が荷風に親しむ点においても新字体の採用には利点がある。それでも,私は荷風の時代の姿をより近似的に写す旧字体のほうが好みなのである(*)。旧字体の古めかしい姿が明治への荷風の懐旧を写すように思われるからである(「思われる」だけで学術的な根拠はない)。
妻は「『あめりか物語』,『ふらんす物語』など読んだけど,永井荷風っていったいどこがよいのかさっぱりわからない」と言う。それでも読んでいるところ,さすが国文科を出ただけはある。じつは私もよくわからない。むしろ荷風のような人物像は私の嫌いな人間のタイプに属する。
『断腸亭日乗』で荷風は,世相を嘲り,マスコミを嗤い,実名をあげて他の作家(例えば,菊池寛)をクソミソに貶し,谷崎潤一郎からの私信,しかも谷崎が佐藤春夫に妻をくれてやったという大いに憚りのある私信を,面白半分に,そのまま掲げている。一時期託っていた元娼妓について,「お歌とは,去夏六月お歌奇病に襲はれし以前より閨中の交いつともなく途絶えゐたり。[ ... ] その後はいかなる人の世話になり居るにや,それらの事情知りがたき故,余は今以て表面だけの交際をなし居れるなり」(『荷風全集』巻二十一,岩波書店,1971 年,190 頁)なんてプライベートな秘密(と常識的な人なら思うようなこと)をしゃあしゃあと記す。しかも,これを堂々と公に「発表」しているのである。われわれのような俗物,パンピーからすれば,無神経というほかない。とくに現代の女性が荷風の作品を読むと「女を食い物にする無責任スケベオヤジ」の烙印を押すに違いないと思われる(私はそうは考えないが,それも無理もないと思わざるを得ない断片が至る所に現われる)。
かくして,荷風は人間的には尊敬できない人物だったと私も思う。それでも,彼は,あくまで作家であったわけだ。同時代に対する醒めた皮肉な — 今だからこそ的確だったと言える — 視線や,孤独に耐える知的な自立精神,老いの悲哀,江戸への郷愁,等々,作品を通して触れられることどもは,私にとってこの現代の日本にこそ意味があるように思われてならないのである。だから強く荷風に惹かれるのである。私も五十を越えてしまい,荷風のボヤキも苦渋も哀切も少しはわかる歳になったからか,ひねくれたこの作家に付き合って行こうと思っている。