河村名古屋市長発言

名古屋市の河村市長が,南京大虐殺はなかったとコメントして,話題になっている。当然ながら南京市が猛反発し,日中両国がまたぞろギクシャクしている。どういう「信念」をもつかは各人自由であるが,責任ある政治家が歴史的事実関係を踏まえないで,このようなデリケートな問題について軽々しく発言するのは,ホント「傍迷惑」もいいところである。「南京大虐殺は中国の虚構だ,それに騙されるのは自虐史観だ」と騒ぐ人はたくさんいて,河村市長の戯言を擁護すべく怪気炎を上げている。でも,きちんと学問的に中国史を研究する「まともな」識者なら,虐殺の規模は別として,これを「虚構」,「捏造」などとは言わない(しかも,この「歴史」は日本,中国に限定されず世界の認識である)。

中国・南京市民にとってこの問題は — 中国政府が愛国心の発揚のために煽っている要素があるにせよ — ,広島・長崎市民にとっての原爆体験,沖縄県民にとっての沖縄戦・基地問題とまさに同じように「心の琴線」に触れるのである。個人的に耳にした肉親の話を「歴史的事実」にまで昇華させるという河村市長の軽率な発言。しかもまったく発言の意図がわからない。よって,ただの戯言。個人的信念の「ホンネ」がポロリと漏れたということなんだろう。しかし,このおかげで,名古屋市と南京市,ひいては中国との関係がしばらく断たれ,名古屋のある企業は中国の重要な顧客を失うだけでなく,中国で経済活動をしている日本企業人はいまや決定的に苦境に立たされているはずである。中国にいるうちの会社の社員も虐められるんだろうな。「河村の野郎,勝手なこと言いやがって」と怒り心頭に発しているのは,そういう日本人だろう。

減税はどうした? 今回のコトバの軽さで,川村市長はどうも相手の心情にあまり気を使わないシアワセな人間であるらしいということが,少なくとも私にはわかった。政治家の失言についていちいち目クジラを立ててもはじまらないが,この場合,発言が無意味/無思慮なのに影響が大きすぎる。私が名古屋市民なら,もう彼の言うことは信用しないだろう。思慮も覚悟もなく,とんでもない過ちをさらっとやってくれそうだからである。
 

3.8 付記

祖父の世代を悪く言うのはホント憚られるのだけれど,南京大虐殺は規模こそ大いに疑問であるにせよ,「そんなのはウソだ,日本人にそんな大それたことができるわけがない」とそれを否定するのはナイーヴだと思われる。これと同じように「百人斬り」の逸話を「日本刀で百人もの人間を惨殺するなんて物理的に不可能だ」と,しごくまっとうな理屈でもってその事実を否定し,ひいては当時の日本人の狂気を否定したがる人がいる。

否,冷静に考えて,当時の日本人は狂っていたのである。この「百人斬り」は確かに物理的に疑わしいわけだけれども,問題は,当時のマスコミ(毎日新聞)がこれをあたかも現実の武勇伝のように囃し立てたということに尽きる。それを日本人皆が痛快に感じていたということ。30 万人(?)もの南京大虐殺は物理的に不可能かも知れないが,当時の人は「百人斬り」同様,それが事実であると思いたがったに違いない。時代思潮というのはそういうものである。

でも。私は狂っていた当時の日本人が好きである。狂い方がもう少し何とかならんかったのか。というのが私のホンネである。だって,いまだって日本人は狂っている。戦前と比べると少々恥ずかしい狂い方のように思われるだけである。