江戸迷宮

先週の通勤電車のお伴は,井上雅彦監修『江戸迷宮 — 異形コレクション』(光文社文庫,2011 年)であった。松尾芭蕉読書からはじまって私も江戸時代小説に捕まった。昔から,山本周五郎,池波正太郎,岡本綺堂,山田風太郎なんかの時代小説は読んで来たんだけど,「失われた日本の美的センス」とでもいうものに最近ことに郷愁を覚えるんである。本書『江戸迷宮』は,井上雅彦の発案で編まれた書き下ろしの江戸怪異潭集成である。主に若い作家に個別に依頼して原稿を集めたようである。これを読むと,最近の若い作家も旺盛な関心をもって想像力を研ぎ澄まし,お江戸の闇を凝視しているんだと感銘を覚えた。

短篇の怪異潭集ということで作家の才気が光るものが多い。吉原花魁・半玉をそれぞれヒロインにした平谷美樹『萩供養』,長島槇子『雛妓』は,死と愛欲との究極の一致という近松浄瑠璃の激しい情念を想起させて,素晴らしかった。薄井ゆうじ『彫物師甚三郎首生娘』は,女の生首に恋した彫物師の藝道潭という,江戸川乱歩ばりのファンタスティックな物語だった。タタツシンイチ『風神』は,元は弱気な真面目人だったのに刺青を入れたら「気」が肥大してしまい壮絶な最期を遂げてしまった男の怪談だが,刺青という記号と身体との関係を象徴的に再認識させてくれる佳作だった。老境に入った皆川博子の掌編『宿かせと刀投出す吹雪哉 — 蕪村』は,大きく回転してクライマックスに落ちて行くような物語性を欠くにもかかわらず,滲み出るような渋い文章の味があった。散文による俳味が。

このように本書の短篇はいずれも美しい江戸の闇を見せてくれるんだけど,私は監修者自身による作品・井上雅彦『笹色紅』がとりわけて面白かった。登場人物の語りを並列するだけで物語を構成する手法に立っているのだけれど,その大団円の衣裳の切替えにはあっと言わされるはずだ。そしてそのタイミングで問わず語りのからくりの妙がわかる。「どんな」って?— それについてはぜひ本書をお読みください。ストーリーテラーとしての井上の才能もなかなかなんだけど,しかしながら,私はその描写の視線というか,井上の描き方そのものが江戸の仮名草子の伝統を髣髴とさせて,いたく興味深かったのである。

 ......お佳那のことは,見間違えよう筈もない。
 はじめて会ったのも夏だった。
 猿若町の芝居茶屋。そこの娘だった筈で,黒の格子柄の薄物に真紅の帯を巻いていた。薄物からは,白い軆体が匂いたつように,透けてみえた。
 紅羅宇も鮮やかな長煙管の,銜える仕草はぎごちない。[ ... ]
 そして......<笹色紅>を買ってやった日に,はじめて出会い茶屋に誘ったのだった。
 春から匂いたつ潮の香が,江戸を包み込む季節......。
 何ひとつ羽織らぬお佳那が,しどけなく紅を引く姿が,いまだに目に焼きついている。<笹色紅>は,きらきらと虹の七色に輝く紅だ。
 玉虫の飛翔のように,碧,紫,紺,朱と色彩を変え,お佳那の子鹿のような顔がうごき,その唇が動くたび,その燦めきに誘われる。
井上雅彦監修『江戸迷宮 — 異形コレクション』光文社文庫,2011 年,pp. 351-2。

顔よりも身につけた衣裳・小物の描写に意を尽くす。その衣裳・小物は,江戸人の粋な趣味・伝統の消息に思いを馳せさせてくれるだけではなく,作品の行く末をほのかに暗示している。この重層的な文体の特徴は,まさに江戸仮名草子のそれである。国文学者・亀井秀雄は『身体・この不思議なるものの文学』(れんが書房新社,1984 年)において,『うすゆき物語』(寛永九年,1632 年刊)の書き出しを分析しつつ,江戸草子のこうした文体的特徴を「ミクロ・コスモス的表現」と呼んだ。

その点でこの [『うすゆき物語』冒頭の:私註 ] 描写は,現代の記号論から見て三重の意味作用をもっていたことになる。つまり直接に衣裳の模様そのものを指し示す外示性(dénotation)と,それが伝統的な自然美や恋の名歌を連想させる共示性(connotation)と,物語全体の展開が冒頭の部分(衣裳の記述)のなかで象徴的に予告されるという提喩的な機能(synecdoque)と,である。
亀井秀雄『身体・この不思議なるものの文学』れんが書房新社,1984 年,p. 15。

『笹色紅』の引用箇所の語り手は,あとで,果たして,笹色紅のお佳那が別の遊冶郎(あそびにん)と浮気をしているのを目にしてしまう。そのくだりには「まるで<笹色紅>のようだ。見方によって,向きによって,まるで別の色に見えてしまう」(前掲書,p. 355)と書かれている。要するに,きちんと笹色紅のもつ synecdoque 機能の「種明かし」をしているわけである。文体,すなわち,「文学の約束事」の意味を忘れた,呑込みの悪い無粋な現代人 — 「文は人なり」,文体とは作家の「個性」,言わば「体臭」のようなもの,などと勘違いしている無粋な現代人 — のために,こういう助け舟を出さないではおれなかった,ということか。

思うに,この「ミクロ・コスモス的表現」は古典的短歌・俳句の重要な特徴でもある。これらの仕掛けの中心にある掛詞や縁語は,現代の文体感覚ではダジャレ/地口に向いてしまい,洗練された表現としての重層感は失われている。「失われた日本の美的センス」が偲ばれるというものである。