岩井志麻子作品

岩井志麻子の小説を二冊読んだ。『邪悪な花鳥風月』と『瞽女(ごぜ)の啼く家』。いずれもホラー小説として絶品であった。

私は未知の作家について著書を本屋でパラパラ書き出しを読んで買い求めるタイプである。世間で評判かどうかはまったく気にしない。これまで岩井志麻子という作家の存在を知らなかった。ところが,岩井はかなりの有名人らしく,娘は知っていた。速読のできる娘は,私が買ったもう一冊の岩井作品『楽園 ラック・ヴィエン』を手に取って,2分くらいで目を通して,ひとこと「やっぱエロの漂う人だワ」。娘によれば,岩井は『5時に夢中』なるテレビの夕方バラエティ番組にコメンテーターとして出演していて,「異常人のオーラ」を発散しているらしい。一方,私とは違って新聞などの書評を丹念にチェックして本を買い読むタイプである妻も,朝日新聞で取上げられた岩井の出世作『ぼっけえ,きょうてえ』をすでに読んでいた(「オレにも『ぼっけえ,きょうてえ』貸してよ」と言うと,書籍で部屋が狭くなるのが嫌いな妻の曰く「面白かったけど,もう古本屋に処分しちゃった」)。私も作品を読んで,岩井が確かに有名になってしかるべきめっちゃ力量のある作家であると納得した。

『邪悪な花鳥風月』は,「私は若くて美人で才媛で,しかも幸せで裕福で堅実な家庭を守る主婦でもあった(p. 9)」— そういう,美貌と才能,金,幸せな家庭のどれにも恵まれた新進女流作家「私」が紡ぐ物語集という名目で繰り広げられる連作怪異潭である。日本の伝統藝術の根幹にある「花鳥風月」に歪みを加え,花,鳥,風,月のモチーフで異形の幻想的ホラーに仕立てた。

「本来なら私とは決して交わることのない,安アパートの住人達だ。安月給で暮らす人間がどんな顔なのか,いい大学を出ていない人間とはどんなふうに生活しているものなのか,贅沢や浪費を知らない人間の求めているものは何か。私はそれらに興味津々だった」(p.12)— そういう「私」の上から目線丸出しのもとに(このあたりから「何かヘン」な胸騒ぎがある)創造される『邪悪な...』登場人物たちはことごとく,なんの取り柄もない市井のパンピーである。この書く主体と書かれる客体とのことさら誇張された空疎な階級的関係幻想こそが,あとになってじつはホラーのホラーたる核心であることがわかる。書いている者も書かれている者もおぞましい猟奇的惨劇に取り込まれ,言わば両者ともに何かから相対化される。いったい誰が誰の何を書いているのか混沌としているのに,書かれている事柄自体が鮮明に網膜に取り憑いてしまう。こういう物語構造こそが恐怖を高める妖かしの仕掛けになっている。

この小説には普通の男女の人間的卑俗さが心憎い筆致で描かれている。エロな描写もかなり出て来るが,官能小説のテクスチャにはない,それこそ目を背けたくなるくらいのイヤらしい官能美なんである。エロ DVD を再生装置に掛けて「どれどれ」と思って観はじめたら,出演しているのは美貌の AV 女優ではなく,なんとお向かいに住む田中さんの(美人とは思われない)奥さんだった。としたらどうだろうか。一般のエロ DVD で目の前に繰り広げられる映像を,この「自分のふたつの目」で視ているのではなく,何か抽象的な「想像力」で視ていたことに気付く。本当に「自分のふたつの目」で視ることがいかに難しいかがわかる。岩井の筆致は書かれていることを「自分のふたつの目」で視ることを強要する。そこが官能小説との違いである。

ところで,官能小説のエロ描写は,美的であると決めた設計に従って自動出力された大量生産品のようなものである。Java 官能小説クラスライブラリ(こんなものあるわけないけど)でインスタンスを生成し,そこに主人公の名前と性交体位とをパラメータとしてセットして「描画」命令を発行すると,誰がコーディングしたプログラムでも自動的にエロ・テクスト・パラグラフを生成することができる。生命保険のおばちゃんが生年月日などを顧客に問診してそれを機械に入力すると,パパパッと保険の設計書が出力されるのと同じ。

 彼はすぐにその手を下ろすと,衣の裾を持ち上げました。楽器を奏でる優雅な手つきです。彼の顕な腰部には女性器が口を開けていました。[ 中略 ]
 それに見蕩れる暇もなく今度は男性器の方が現われました。これは至極当たり前の形状でした。そこだけ凡庸なため逆に生々しく異様な感じです。
 芳子は長椅子に俯せにされました。肘かけに手をかけると尻を突き出します。中心に涼しい風を感じます。その風は難なく柔らかな肉を掻き分け深奥に吹き込んできます。
岩井志麻子『邪悪な花鳥風月』集英社文庫,2004 年,p. 145。

これは「第三章 いずれ檸檬は月になり」における,「頭巾をすっぽり被っていますが,頭の天辺に口がある」,手足の美しい「Q」と主人公・芳子との愛の行為の描写である。Java 官能小説クラスライブラリには,「楽器を奏でる優雅な手つき」や「頭の天辺に口がある」両性具有者の文字列を出力できる関数が実装されているとは想像できない。「自分のふたつの目」で視ることを忘れた,ライブラリ自動出力に馴れてしまった読者は,岩井のこのテクストが何を言っているのかわからず,目を背けたくなる美しさがわからず,これをただの「バグ」だと思うだろう。
 

 

『瞽女の啼く家』は明治の岡山の田舎が舞台の土俗的ホラーである。著者一流の岡山方言を取り入れた語りが特徴である。でも,この作品の核心は,目に見えないものを見えるようにするのがホラーの真骨頂であるというテーマ性にあると思われる。瞽女(ごぜ)とは,一般に女性の盲人のことだが,日本ではとくに,三味線を弾き歌を歌って門付して歩く盲人女性芸者を指す。物語は三人の瞽女の視点から描かれるパラレルワールドである。

 お前達は恋うる人も怨む人もなく,驕りも嘆きもなく,ただ薄闇の中で生きて奏でて歌っていればよいと,皆様はおっしゃるでしょうか。
 はい,と答えます。明日枯れる花を思い煩い,明後日死ぬ蟬を哀れんだとて,歌は巧くはなりませぬ。妾達は,雪が降れば薄明かりとなる瞼の向こうを楽しみ,寝て見る夢の中だけで極彩色を悦んでいればよいのです。
岩井志麻子『瞽女の啼く家』集英社文庫,2008 年,p. 5。

このような,作品の大きなテーマを象徴的に予告するような美しい書き出しには,最近めったに出会えなくなってしまった。「明日枯れる花,明後日死ぬ蟬」への無関心は,伝統的な審美眼の歪められた,盲いた藝術家の立場である。この意味で『邪悪な花鳥風月』の趣向と同じものがある。目の見えない者の想像力という極彩色の夢 — これは盲者こそが目に見えないものを見えるようにできることの豪語である。極彩色の夢とは次のようなビジョンを言うのだ。

 指先で探る簪の銀の枝垂桜の模様ほどに,複雑に曲がって折れた畳廊下。人に懐かぬ異国の小鳥の羽ほどに軽やかな開け閉めのできる,しかし無数ともいえるほど奥に奥に連なる襖。裸足で歩けば背筋をなぶる淫靡な艶を直に感じ取れる,ああもっと歩いていたいと呟かせる,長い長い果てしない渡り廊下。
同書,p. 110。

畳廊下を歩く感触に「簪の銀の枝垂桜の模様」を感じ取る。私はこういう描写にこそ「テクストの快楽」というものを覚える。われわれ凡人が普段の生活では見ることの出来ないビジョンを見えるようにしてくれるとは,こういう想像力をいうのである。作品は,目の見えない者特有の能力について言及しているけれども,目では捉えられない真実への感応を目に見える形に表現することは,すなわちホラー,ひいては文学一般の意義・骨髄であるというようにも聞こえる。
 

 

娘の話で岩井志麻子という人間にも興味をそそられ,Wikipedia で調べてみた。テレビ・タレントとしては,下ネタで特殊な人気を博しているようである。旦那様は 18 も年下の韓国人だとのこと。飼っている猫を日本人である岩井は「竹島」と,韓国人である夫は「独島」と呼び,お互いに「領有権」を主張しているそうである。痛快である。私には,日韓関係のあるべき姿であるような気がして羨ましい。

でも,岩井志麻子は彼女の小説作品で判断すべきである。「下ネタ」なんてゲビた表現を彼女の言葉に対してなすのは失礼である,ということがしかとわかるはずである。自動出力・大量生産のメリヤス品と藝術家の手が紡いだ極上の絹織物とを同じにしてはいけません。