「𠮟」という文字がいまあなたのモニタに表示されているだろうか? 私の愛用する Mac OS X Snow Leopard: Safari 5.0.4 あるいは Mac OS X Tiger: Safari 4.1.3 ならしっかり見えるが,Windows ユーザはどうだろうか? Windows 7 なら大丈夫か。XP ユーザは見えないのではないだろうか? なんでこんなことを記すのかというと,昨年,11 月 30 日に告示された改訂常用漢字表にこの文字が追加されたからである。1981 年以来の改訂である。なんとその前は 1946 年。
上の「𠮟」という文字は「しかる」という訓を持つ字である。口偏に「七」と書く「しかる」。「しかる」と入力して仮名漢字変換されて普通に出て来る「叱」なら,おそらく誰のモニタにも表示されるはずである。ところが,いつもパソコンで入力している「叱」という文字のほうは誤字であって,「𠮟」こそがじつは正しい「しかる」なのだ(『字源』には「俗に叱と作るは非」とある)。JIS がはじめのボタンを着け間違えた次第なのである。ここに来て常用漢字表に正しい字体が入れられた。
文字「𠮟」は Unicode CJK Unified Ideograph U+20B9F というコードポイントを持つ。いわゆるサロゲートペアと呼ばれる拡張領域(Extension B)に配置されている(JIS では JIS X 0213:2000 第三水準区点 4752)。この領域をきちんと読書きできるソフトウェアはまだ多くないのではなかろうか。私はここで「𠮟」の文字を Mac OS の「ことえり」で入力したわけではない。多言語テキストエディタ GNU Emacs 24 の ucs-insert 関数に 20b9f を指示して得られたものを,コピペしたんである。
そう,そんな特殊なところにある文字(正しい文字なんだけど)が常用漢字表に収録されたんである。このことはいまあんまり騒がれていないが,官庁,地方自治体はもとより,出版や報道業界にも少なからざる影響が出るはずである。その筋のシステム屋は,もうすでに,これら常用漢字表にあるにも拘らずシステムで表示・印字できない文字の取扱いに悩まされているはずである。大騒ぎにならないうちになんとかしなくっちゃと。
官庁・地方自治体のシステムは,つい最近に設計された新しいものは別として,Unicode 対応すら進んでいないのが実情だと思う。文字コードは JIS X 0208:1983, :1990 準拠が基本ではなかろうか。漢字コード草創期の設計を踏襲して大きくなって来た官庁・自治体システムは,人名許容漢字の法令に従わなければならず,貧弱な JIS X 0208 を補うために,JIS 第一水準/第二水準にない文字のために大量の外字を抱えている。そして,文字周りはいろんなところに影響するので,おいそれとは改修できない。(同じようなことを JIS 2004 についても書いたような気がする。)
JIS の独善的標準なら「システム仕様として対応してません」で済むかも知れないが,こと日本国政府ご指定の「常用漢字」に扱えない文字があるとなると深刻である。国民との文書交換を考慮すれば,世の官庁・自治体もこの常用漢字改訂で Unicode 対応システム改修に重い腰を上げることになると思う。また税金が本質的でないことのために消えて行くというわけである。漢字・仮名遣いという悪魔的正書法に立つ日本は,いつまでたっても文字を巡る混乱から解き放たれない宿命にある。「歴史的仮名遣いに戻せ」云々のエセ文化人による戯言よりも,もっと高度で抜差しならない宿命である。
ことのついでに,「𠮟」のようなサロゲートペア文字をどうしても入力できないとき,Perl で出力させるワンライナーを示しておく。Perl 5.8.5 くらいのバージョンが必要だと思う。
端末コマンドラインから次を叩くと,「𠮟」(=U+20B9F)が出力される。(※ 4.27: 少し簡略化した)
% perl -e 'binmode STDOUT, ":utf8"; print pack("U", 0x20b9f);'
あるいは,
% perl -e 'binmode STDOUT, ":utf8"; print "\x{20b9f}";'
20b9f のところに必要な文字の Unicode コードポイント十六進数を指定する。20bb7 を指定すると「𠮷」(吉野家のつちよし)が出力される。この出力をファイルにでもリダイレクトしてコピペして利用すればよい。Mac OS X Tiger 以降のターミナルなら端末上にきちんと文字が表示されるので,それをコピーすればよい。もちろんターミナルの LC_ALL 環境変数は ja_JP.UTF-8 に設定されていなければならない(これはデフォルトのはず)。
Unicode コードポイント十六進数は,学研の『漢字源』なら JIS コードとともに掲載されている。何の役にもたたない『JIS 漢字字典』なんて高価本を買うのはやめて,ぜひこちらを座右に置いていただきたい。私は改訂第四版を愛用しているが,最近第五版が刊行された。
Windows Vista, Windows 7 なら IME パッドから CJK Unified Ideograph Extension B 領域の文字を入力できると思う。Office も 2007 ならきちんと使えるはずである。
※ 4.26 付記
この記事を書いたあと,ネットを渉猟していたら,京大の安岡孝一先生(文字コードに関する権威でもある。日本語文字コードに関する見識において私が尊敬する学者のひとりである)が,2009 年 12 月の段階で『新常用漢字表が迫るUnicode移行,『シフトJIS』では対応不可能』というコラムを ITpro に掲載し,新常用漢字表の改訂について IT 業界に警鐘を鳴らしていた。さすがである。
上で「いつもパソコンで入力している『叱』という文字のほうは誤字であって」と書いた。この記述そのものを訂正するつもりはないのだけれど,「叱」という字体はすでに一般に浸透しており,もはや「誤り」とするのは時代錯誤というものである。出版の世界でも「しかる」「しっせき」に対して「叱」を表記しても,「無知無教養」でも「恥ずかしい」わけでもない。きちんとした国語辞典,しかもコンピュータの利用が一般化する以前に出版された新潮国語辞典(昭和 40 年初版)でもすでに「叱る,呵る」となっている(ただし,私の手元にある昭和 58 年刊岩波書店『広辞苑』第三版では「𠮟」という正字体のみが掲載されているし,平成 14 年再版・大修館書店『新漢語新辞典』では正字体「𠮟」のみが見出しになっており「叱」字体については「叱カ(口を開くさま)は別字であるが,俗に混用する」という記事がある)。つまり,JIS 第一・第二水準における「叱」採用は,JIS が「間違った」というよりも,もとよりこうした俗化・混用の「定着」の反映と捉えるべきである。
※ 2011.5.28 付記
会社の Windows XP professional Version 2002, SP3 + IE 6.0.