喫茶店に寄る・安東次男『芭蕉』

今日,顧客との打合せのあと,メシを食いひとり喫茶店で息抜きをした。上島珈琲店。最近「喫茶店」というものはスタバやドトール,エクセルシオールなどの小綺麗な米国風チェーン店に席巻されてしまい,昔ながらのお店 — 店主がコーヒーをドリップしていて,店主のほかはアルバイトのお姉さんがぽつねんと居て,クラシックやジャズのレコードが回っていて,というようなお店は,身近には珍しくなってしまった。

上島珈琲店もチェーン店ではあるのだけれども,今日たまたま入ったお店では,店主と思しき男性が一杯一杯丁寧にドリップし,一人だけの女性店員が注文を取りに来た。店は白と褐色が基調の古風なたたずまいである。おまけに,私が席に着いた瞬間に,"When I was just a little girl,.." のあの『ケセラセラ』が流れはじめて,「うっわぁー」と思わず呻いてしまった。そしてお次は,なんとクィーンの "Let Us Cling Together"。"Te o tori atte kono mama ikou" と日本語の歌詞が入っている私の大好きな曲。低音をやたらに強調した音響が,まるでジュークボックスに耳を傾けているようで,懐かしかった。

東日本大震災・福島第一原発事故の爪痕はしばらくは消えないだろう。これは真のクライシスである。国としての本当の危機的状況はこれから起こるような不安がある。被災者の方々は途方に暮れ,疲れている。生き延びたとしても,この先行きの不安で精神的変調を来す者もいるはずである。太宰治の小説にあるように「トカトントン」という音がどこからか聞こえて来て,なにもする気がしなくなってしまう人がいるかも知れない。私も少し虚脱感に襲われつつある。

加藤楸邨はその『芭蕉全句』(全三巻)のなかで,太平洋戦争での空襲のなか,「ぎりぎりのところに,常に深い静かさを湛えている」芭蕉作品に惹き付けられてやまなかったと述懐している。私もこの震災のせいか加藤のような心境にいたく親近感を覚える。この虚脱感からなんとか脱したいと,私も芭蕉の事蹟をたどりたいと思うようになった。

上島珈琲店で苦いストロングブレンドを飲みながら,安東次男『芭蕉』を読んだ。安東は,文献学的レアリアを踏まえながら詩的想像力を縦横に働かせることの出来る,数少ない詩人・評論家のひとりである。レアリアとは無関係に,勝手な「感性」で芭蕉の凄さを語る人はゴマンといる — そんなのとは大違いの批評家である。彼の書いた芭蕉七部集注釈の金字塔『風狂始末』は,おそらく芭蕉鑑賞・批評の最高峰である。安東は,芭蕉の俳句を独立した個人の芸術として評価するというよりも,連句の付け合いの心の発露にこそ前代未聞の独創性があると見ている。安東の『芭蕉』は,まさにこの連衆心,同行心をキーワードとする。

芭蕉はとりわけ同行を重んじた俳諧師だったが,俳諧師にとって連衆の座と独居の間を時計の振子のように往き戻りするのは,避けることのかなわぬ宿命だろう。それを芭蕉は,「発句の事は行て帰る心の味」(『三冊子』),「歌仙は三十六歩也,一歩も跡に帰る心なし。行にしたがひ心の改は,たゞ先へゆく心」(同)があるゆえだ,と一読明らかな矛盾と思わせることばで訓えているのであるが,俳諧者の平常心の在り様を端的に言取っている。
安東次男『芭蕉』中公文庫,1979 年,144 ページ。

芭蕉の言に認められる詩精神の「矛盾」の,これほど素晴らしい止揚に私が出会うことができたのは,これまで安東の著書くらいである。