芭蕉のロシア語訳を試みている D. Smirnov から,次の芭蕉俳句翻訳(ロシア語訳: В. Мендрин; 英訳: W. G. Aston)の原文を岩波文庫『芭蕉俳句集』でどうしても見いだせないので,どれか教えてほしい,と問い合わせがあった。これまでも,英訳もしくはロシア語訳の芭蕉俳句の原文は何か,聞かれることが多かったのだが,この特定が結構難しい。
«Это было новолунье!
Съ тѣхъ поръ я ожидалъ —
И глядь! сегодня ночью!»
(© В. Мендрин)
“’Twas the new moon!
Since then I waited —
And lo! to-night!
[I have my reward!].”
(© W. G. Aston)
この日本語原文は,どうも,「三日月のころより待ちし今宵かな」であるらしいと特定できた(翻訳からすれば「新月のころより...」なんだけど)。ところが,私の書架にあるどの芭蕉俳句集にも,どの連句集にも見当たらない。インターネットで調べたところ,この句は世間に流布した芭蕉伝説にある偽作のようである。
あるとき旅の俳人が何人かの農夫からこの満月を詠んでくれと頼まれた。俳人は「三日月の...」と詠い出すと,農夫は「満月をですよ!」とちゃちゃを入れる。俳人はそれに気を止めることもなく続けた —「ころより待ちし今宵かな」。ああなるほどと農夫はこぞって畏れ入った。伝説はそのようなものである。いろんなヴァリアントがあるようで,俳人は芭蕉であったり,小林一茶であったり,宗祇であったりする。
ま,機智を感じさせるエピソードではあるけれども,この句そのものはひねりがなく,三日月のころから望月を待ったんだよ!なんて発想がそれこそ月並みで,とても芭蕉句とは考えられないわけである。これは芭蕉の句ではありません,と D. Smirnov にメールを返した。