和に浸る,Henry Purcell, Fantasias for viols

最近,芭蕉関係の本を読み漁っているからか,「和」の雰囲気にどっぷり浸っており,浮世絵サイトを眺めたり,音楽も日本の現代作曲家・吉松隆のピアノ曲・プレイアデス舞曲集,— なぜか — 中森明菜の 1995 年に出たリアレンジ・ベスト曲集 TRUE ALBUM AKINA 95 BEST を繰返し聴いていた。芭蕉ロシア語訳を進めている D. Smirnov のために,今日も芭蕉真蹟イメージをせっせと Facebook にアップロードしたりしていた。

芭蕉も歌麿も当時の大衆的超人気アーティストだった。風雅,風狂のみならず日常性,ユーモア,諧謔,卑俗,ときおり漂うエロチズムの豊かな芭蕉俳句に親しみ,浮世絵の極彩色の色調・独特のデフォルマシオンに感嘆していると,芸術の大衆的・世俗的側面が皮肉に眺められる現代的芸術観はどうもお高く止り過ぎているように思われて来る。

私はこのところ,浮世絵はいまのマンガ,アニメに他ならない,と思うようになった。マンガ,アニメは,素早く仕上げられ大量生産を可能とするシンプルな様式と,絵であるがゆえの非現実的描写・デフォルマシオンと,享受者を「萌え」させるに足る独特のリアリズムとを,見事に統合し作品として血肉させている。この特徴は,浮世絵,さらには文楽の人形様式,歌舞伎のどぎつい化粧様式とまったく共通する。様式素材が非現実的であるからこそのリアリティ。ヘンタイ,ヤオイなどのジャンル(米国などでやり玉に上がっている日本アニメの,恥部とまでいわれるジャンル)に認められるエロだって,北斎,歌麿などがいくつも描いたモロ出し春画とまったく同じじゃないか。そしてようやく私は,海外のオタクのみならず絵画・映画の識者にも日本のマンガ,アニメが評価されている理由が理解できたのである。かつて北斎などの浮世絵にゴッホやフランス印象派の画家たちが血道を上げたのとまさに同じだったのである。かつて浮世絵が日本では二束三文だったのに西欧で高く売れるとなったらいきなり国内でも真面目に研究されはじめた,そういう日本人自身が「芸術性・高尚さ」を認めていなかった事情もマンガ,アニメと共通である。これからは,浮世絵を芸術だと称揚する一方でマンガ,アニメというメディアをバカにする批評家を見たら嗤ってやろう。

とまあ,「和」に浸たりきっていた。そういうわけで,今夜はヨーロッパの古楽をしみじみと聴くことにした。英国 17 世紀の,芭蕉とほぼ同時代に生きた大作曲家ヘンリー・パーセルの Fantasias for viols ヴィオールのためのファンタジア集。パーセルはバッハ,ヴィヴァルディ,テレマンの次に名前をあげたいバロック作曲家なんである。演奏は Ulsamer-Collegium。独 Archiv 1977 年録音のアナログレコード。第 7 番 4 声のファンタジア・ハ短調,第 8 番 同・ニ短調は,時代を先取りするようなシャープな旋律と対位法で(こんな言葉で言ったって意味がないんだけど)私のもっとも好きな古楽のひとつである。ああ,ヨーロッパの文化もやはり最高である。
 

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上記の盤はアナログであり,もはや廃盤となり,入手不可能のようである。CD なら,次のロンドン・バロックの演奏による盤が私のお勧めである。
 

Fantasias for Viols
London Baroque Orchestra
Capitol (1993-01-12)