35 万票を得て堂々の当選を果たした谷亮子は,立候補の段階で「柔道も続ける」との意志を表明し,一部に「国政を舐めている」との批判を浴びた。『谷氏,柔道着で練習!『二足のわらじ』始動』という記事についた Yahoo! コメントも,概ね「二足のわらじ」に対して批判的であった。
でも,なぜ「二足のわらじ」を履くと国政への取り組みが疎かになるなんて断言できるのだろうか? 例えば,幼子がいる母親の議員がいるとして,子育てと国政が両立できるか云々の議論をする馬鹿がいるだろうか? 子育ては過酷だが,でもそれを捨てなくちゃ国政が成り立たないというのは,人間であることをやめないと政治はできないというのに等しく,「政治」そのものが意味をなさなくなる。それを「ひとつのもの」としてやり抜くスタンスがあってこそ何かが達成される,そういう活動もあるのではないか? 何を「二足」と分割して捉えるべきかは,その人次第,状況次第ではないのか?
なんでこういう見方をする人がおらず,アプリオリに「二足のわらじ」だと腐すのはなぜなんだろうか? このように,進展する状況を確認する前から頭ごなしに「二足のわらじ」そのものを悪と断じてしまう俗物ども — これらバカ Yahoo! コメンターたちはまさにそういった「何も考えない,頭ごなしの愚かな俗衆」そのものである。谷亮子はどれほど選ばれた優れた人間なのか,金メダリストというものがいかに凄いのか,この人たちにはわからないのである。どんな優秀な人間も自分とあんまり変わりがないと自惚れていられる無邪気な奴らなんだろう(要するに,遠く置いていかれているのに,それに気づかない人たち)。谷亮子とキミたちは,天と地,神と奴隷,ダイヤモンドと糞くらい違う。キミたちが死んでもせいぜい親兄弟しか悲しまないが,谷亮子が死んだら何千万人もの国民が悲しむ。
これからいろんな試練が谷亮子に降り掛かるはずである(すでにこれら俗物どもの騒音に痛いほど曝されているともいえる)。彼女なら,己の仕事の状況を冷静に見据え身の振り方を適切に変えて行くことができる,と私は思う。豹変できる器であると。その過程で「二足のわらじ」を断念するかも知れない。やり抜くかも知れない。その過程を見守り,状況に応じて叱咤・応援しよう。それでよいではないか。
谷亮子の柔道家のオーラはわかる人にはわかる。そのようなオーラを感じることのできるプーチンのような政治家がいる。そういうとき,国内向けにちょっと変わったことが言えるだけの「みんなの党」の国内向けカリスマ二世議員なんかよりもよっぽど,谷亮子のほうが「政治家」として国益を背負って対等にプーチンと渡り合えるだろう。