バスの運ちゃん

買い物などで川崎駅周辺に出るとき,たいていバスを使う。向こうからやって来るバスとすれ違うとき,運ちゃん同士,手を挙げて合図し合う。相手が別のバス会社であってもである。面白い。同業者間の独特の仲間意識,親密感が察せられる。あの手の微妙な動きでなにか連絡をしているようにもみえる。タクシーは数が多いので挙手し合うことはないだろうけれど,タクシードライバーも同じような符牒で交信し合っているんじゃないかと,私は勝手にあれこれと想像しているんである。

バスの運ちゃんの挙手のような,利害関係にない人達の間での仲間意識の表現は,昔は至る所にあったのではないか。幼いころ,父が運転する車の助手席に座っていたあるときのことを思い出す。父は周りの車に合わせ制限速度を遥かにオーバーした速度で,高速道路をドライブしている。突然,父が言う —「なんや,ポリ公が網張っとんかいな?」。すると,周りの車が皆,示し合わせたように,まるで潮が引くように,制限内に速度を落としはじめた。前を走る車のなかにはウィンカーを点滅しだすものがいた。しばらく行くと,果たして,高速道路の一時停止地点で警察がスピード違反の取り締まりをしていたのだった。父が言ったとおりだった。「なんで警察のこと分ったん?」と私が聞くと,「さっき向こうから来よった車が指示器上げっぱなしやったやろ? あれ,知らせとんねん」と父。つまり,対向車線のある車が,ウィンカーの点灯によって,警察の検問を知らせていたわけである。なにかしらドライバー達の間での嫌警察的仲間意識の合図だったのである。私はウィンカーのことなどまったく気付かなかった。ところが父を含め周囲のドライバーがことごとくスピードダウンし,「無事に」検問通過を果たしたことを思うにつけ,私は大人の世界というものの知恵,抜け目無さ,面白さにびっくりしてしまった。

どうだろう,いまのドライバーも同じような合図で会話し合っているのだろうか。私は車に乗らないので確かなことを言える立場にないけれども,このような一般ドライバーの一種独特の仲間意識に基づく高度な交信は,いまや失われたのではないかと思う。こういうところに,社会コミュニケーションの退化が顕われていると思われないでもない。昔は私の周囲にいた大人はことごとく皆,警察が嫌いだった。父もいつも「ポリ公」と呼んで侮蔑していた。なんでもかんでも警察頼みにする権力指向の時代になったことと,ドライバーの仲間意識の合図が失われたこととは,無関係ではなさそうである。

プロドライバーだけはいまだに合図の仕方で様々な交信をしているんじゃないかと,バスの運ちゃんの挙手を観察するのが私の楽しみになっている。こういう「言語」は誰が記録してくれるのだろうか。