西鶴『好色五人女』

FreeBSD のインストールをする合間に,西鶴『好色五人女』を読んだ。

この作品は,『好色一代男』のような遊郭を舞台としたスキ者の運命ではなく,主として町人男女の姦通とその悲劇的結末を物語るものである。当時世間に騒がれた姦通スキャンダルを題材にしたものだという。要するに色事のプロではなく,パンピーが主人公であり,それだけ男女の業がより浮き彫りになっているともいえる。どこまで事実でどこからフィクションなのかがわからない醜聞話であって,おそらく当時はいまの週刊誌の芸能ネタとまさに同じように読まれたに違いない。

艶笑と滑稽,そしてその残酷なまでの哄笑に支えられた悲哀。これがこの物語の魅力である。安価な正義観や倫理観抜きに,色恋をここまで笑い倒すのは痛快であり,また狂ったような残酷さがその笑いになんともいえない悲哀を滲ませる。唸らさせられるのである。

巻一『姿姫路清十郎物語』では,清十郎とお夏は駆け落ちに失敗して連れ戻されてしまう。引き離された挙句,清十郎はあらぬ罪で処刑されてしまう。それを知らぬお夏は,口性ないガキどもの歌う世の風聞囃子を耳にする。

何事も知らぬが仏,お夏,清十郎がはかなくなりしとは知らず,とやかくもの思ふ折節,里の童子の袖引き連れて,「清十郎殺さばお夏も殺せ」とうたひける。聞けば心にかかりて,お夏育てし姥に尋ねければ,返事しかねて涙をこぼす。「さては」と,狂乱になつて,「生けて思ひをさしやうよりも」と,子供の中にまじはり,音頭とって歌ひける。
新版『好色五人女』谷脇理史訳注,角川文庫,2008 年,185--6 頁。下線は私。

主人公をスキャンダルで物見高い世間の食い物にしつつ,ヒロイン自らにその面白半分の歌の音頭をとらせるなんて,残酷としかいいようのない狂い方をさせている。巻五『恋の山源五兵衛物語』は形式的にはハッピーエンドとなっているが,落ちぶれ,食うに困った主人公・源五兵衛とおまんに,我が身の上をパロディにするヘタな芝居事を子供相手にさせている。

「思へばいやのならぬ陥し穴,釈迦も片足踏ん込み給ふべし」— 誰も拒めない女のあそこの落とし穴には,お釈迦様だってきっと片足を踏み込んでしまいなさる(296 頁)。「ほんにおれは,生まれ付き横ぶとれ,口小さく,髪も少しは縮みしに」— あたしは,生まれ付き太めだけど,あそこは締まって毛も縮れているんだから(176 頁)。このようなあけすけでいきいきとした下ネタがわんさかとあり,もう笑いが止まらない。