近所のお婆さんが亡くなって,プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』の一節を思い出した。第二章,三十六詩節,ドミートリイ・ラーリン(女主人公タチヤーナの父)が亡くなったときの場面である。ドミートリイは典型的な田舎貴族で,女房の尻に敷かれながらも「何事もしごくのんきに信用しつつ/飲み食いも部屋着のままで済ませていた」憎めない善良な人物として描かれている。その死の描写は次のとおり。
Он умер в час перед обедом,
Оплаканный своим соседом,
Детьми и верною женой
Чистосердечней, чем иной.
昼食の前の刻限 隣りの地主や
子供らや忠実な妻などの 普通(なみ)よりは
真心のこもる涙に送られて
彼はあの世の人とはなった。
この件を読んで凄いと思うかどうかが,プーシキンのファンとドストエフスキイのファンとの分かれ目だと私は勝手に思っている。ここには,人間の死の呆れるばかりの皮肉な日常性と,それでも死に対する厳粛極まりない人間感情が,渾然と「表現」されている。ここでは,人間の死が「昼食」の時間を基準に計られているのである。昼飯のまへにあるじは逝きにけり。「なみよりは」という第三者的な眼差し。このような諧謔と同時に,「忠実な妻」(尻に敷かれていたことを読者がいやというほど知っているからこそなおさら),「真心のこもる涙」というウラのない表現が,日常性で貶められた現実に笑えない厳粛さを帯びさせる。なにか「真実」を悟った気持ちになる。ロシア詩の研究者・バエフスキイは,この昼食時の言及には牧歌の伝統が下敷きにある,と分析している。私は,このような何の変哲もない日常風景の描写に諧謔と厳粛,さらには文学伝統まで詠み込む重層性こそが,プーシキンという天才の面白さだと思う。これは — 文学伝統のレミニサンスは別として — ロシア語原典に当たらなくても読み取れるものである。
歳をとったせいか,最近,この手の深い日常的表現に出会うと,感極まって涙が出て来てしまうようになった。正岡子規の「甁にさす藤の花房みじかければ疊の上にとゞかざりけり」という短歌に肝をつぶすのである。人間の生の静けさは軽やかで,動かず,そしてどこか狂気が籠っている。だから美しい。
私はプーシキン,正岡子規の逝った年齢をとうに通り越してしまった。天才的文学者のことばに人生を教えられ,生きることの密度の違いを思い知らされる今日このごろである。