映画『マレーナ』

イタリア映画『マレーナ』は,2000 年,ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品。モニカ・ベルッチ,ジュゼッペ・スルファーロ主演。これはおそらく映画ファンの記憶に残る名作だと思う。『自転車泥棒』や『ラ・ストラーダ』に代表されるヒューマンな名作を誇るイタリア映画の伝統を感じた。

この映画はモニカ・ベルッチの寡黙な美貌の存在感が圧倒的魅力になっているのは疑いないわけだけれど,作品の面白さは,物見高く,噂好きのかしましい「世間」を構成するちょい役の人たちに因って来ると思う。南イタリア・シチリアの,貧しく下品だが開放的で正直な大衆。ムッソリーニの演説にやんやの喝采を与えながら,イタリアが戦争に敗れ米軍が入城してくると星条旗を振って大歓迎する人たち。

しかしながら,彼らは,まるでラブレーのガルガンチュアとパンタグリュエルの登場人物のように,低俗極まりない喜劇的台詞・所作でもって,観る者の哄笑を誘う。主人公レナートの学校での事件はマレーナの悪どい風聞を象徴する,身近な情景である。ラテン語の授業中,クラスの生徒が立ち上がり「マレーナと一発やって来てもよろしいでしょうか」と先生に申し出る。便所に行きたいということだ。「急いで行って来い」と受け流すこの教師はマレーナの父である。「先生,マレーナの口に突っ込んでもいいでしょうか?」,「オッパイに挟んでもよいでしょうか?」,「太腿の奥は?」と生徒が次々にふざける。諦め顔でこの先生はなおも冗談で応える —「ダメだ。一度には無理だ」。

この笑い。ここにあるのは無節操というよりは「世間」のいきいきとした底力なんである。日本の賢しらの映画ならこういう戦中・戦後の「世間」の振る舞いに,俗衆の低俗・陰険のみを植え付けて終わりなんだろうけど,ボッカッチョの国の確かな人間洞察の精神はさすがである。冒頭に主人公の友人,マレーナを性的対象としてしか見ないガキどもがアリを虫眼鏡で焼き殺すシーンがある。よってたかって一人の弱い存在・マレーナを弄る物語の象徴である。しかし,アリがもがき苦しんだ果てに動かなくなるのを見たあとのこの子供たちの無言。己のなにがしかの卑小さを恥じているのである(この自責の思いは,最後の市場のシーンでおばちゃん連中がマレーナを受け入れる背景にもなっている)。こうした人々の喜劇的・世俗的雰囲気のなかで,その対極にある物言わぬヒロインのエロティックな美貌が崇高なまでに高められている。「女神」ということばが度々発せられるのも宜なるかな。

「世間」は,ヒロイン・マレーナの美貌に憧れと嫉妬の視線を臆面もなく注ぎ,亭主を戦争で亡くしたマレーナが淫蕩な生活をしていると信じて疑わない。ところが時は戦時中,父親も空爆で亡くなり,マレーナは生活のために町の有力者や進駐ドイツ軍将校に体を売るしか生きてゆく手だてがなくなり,周囲の低俗な想像に応えるかのように「娼婦」に身をやつしてしまう。少年レナートは,思春期の悩ましい憧れに焦がれてマレーナを見守るなか,彼女が戦争に行った夫をただひたすら思い,周囲の低俗な視線に耐えつつ暮らしていることを,ただひとり知っている。

主人公レナートの性格は,幼いころに遥か年長の美女に憧れを抱くコンプレックスのタイプである。この感傷に捕われたことのない男など,私は想像できない。それくらい共感を呼ぶ少年の思いをジュゼッペ・スルファーロが切なく好演している。彼の父親も重要な役である。少年を恋煩いから立ち直らせるために「一発やらせれば治るんだ」と売春宿に連れて行く。「さあ,行け」と我が子を促すシーンだけ,このうすらハゲのオヤジがめちゃくちゃカッコ好く撮られているのが印象的である。

少年は思春期の性的欲望からマレーナを思慕し,ストーカのように後を追い,飽くことなく見つめるのだが,その過程の果てに,愛する人を失うことになってもその人が幸福になることを選択する。精神的に大人に成長するのである — マレーナが落とした果物をレナートは拾い集めてあげる。ふたりが接触する — ことばを交わし目が合う — 唯一のシーン。そして,レナートは彼女の後ろ姿に「お幸せに,マレーナさん」とことばを掛けるや,彼女を振り返り,振り返り,自転車を走らせる。この最後のシーンは,下品で低俗でかしましい喜劇を,崇高なヒューマンドラマに一気に昇華させる。カモメの舞う海辺。美しい映像なのだ。

この映画は,大笑いさせてくれるとともに,シチリアの美しい映像でうっとりとさせ,少年の人間的成長で泣かせてくれる。私にとって最高の映画の属性なんである。音楽も切ない明るさで郷愁を誘って,素晴らしい。