外国人参政権

外国人参政権を巡って,官房長官の発言「地方の意見は関係ない」が批判を浴びている。でもこの問題は民主党のマニフェストにも書かれていたことである。それで衆議院の過半数を獲得させたのだから,いまさらなにを言っているのかと笑ってしまう。この問題をことさら重視するなら,民主党に投票すべきではなかったのだ。民主主義とはそういうものではないか。

外国人参政権はあくまで地方自治に限定されている。国政には適用されない。従って,安全保障や外交など日本国政府が日本国民の福祉に基づいてコントロールすべき事柄において,在日外国人の「反日」的意図により日本の進むべき道が歪められることは直接的にはありえない。「間接的」にならば,外国人参政権の問題に依存せずいつでも起こりうる。だから,これはそれ自体としては「売国」的法案というほどの意味は持たない。

私はむしろ,地方自治における外国人参政権をきちんと認め,日本に在住する人達にも地域の政策に関与しているという意識を促したほうが,日本で生活していることの権利・義務・責任や,日本国民との共存共栄をより真面目に考えるだろう,と思う向きである。それこそ自由・平等に基づく民主主義の発展観ではないだろうか(民主主義という多数決の論理が,本当によいものかどうかは別として)。

この法案は,憲法 15 条,93 条に反すると理屈をこねる人がいる。ところが実際は,憲法 15 条でいう「公務員」は国民全体に奉仕すべき裁判官や国会議員,政府役人のこと(「全体の奉仕者」)であって,地方議員・地方公務員のことではないと考えられる(神奈川県の「公務員」は長崎県民に「奉仕」すべき立場にないから「全体の奉仕者」ではない)。つまり,憲法 15 条は地方自治への参政権について定めたものではないことになる。93 条も「地方公共団体の長,その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は,その地方の住民が,直接これを選挙する」となっており,「住民」と規定するものの「国民」とはなっておらず,外国人であることによって「住民」であることは否定されない。だから,地方自治の外国人参政権は憲法に違反しない。日本国憲法において「国民」の用語は極めて意識的に使われているのである。「文体論」で日本国憲法を腐しているどこかのへんな文学者知事には,こういうことはどうでもよいのかも知れないけれど。

この法案に反対しているのは,多かれ少なかれ在日コリアンに差別意識を持つ人か,あるいは,地方自治が直接日本国の安全保障を左右すると勘違いしている人だと私は思う。反対意見(ここから私は閲覧した)はまず間違いなく在日コリアンを念頭になされているし,安全保障・外交問題を心配しているではないか。「反日コリアン」に参政権を認めるなんて売国同然? それならヤクザやゴロツキに参政権を与えることで日本国の国家政策が極道者に有利な方向に傾く・傾いている,というようなことになるのだろうか? こうしたどうしようもない日本人のほうが数の点からすれば在日コリアンよりも多い筈である。なんかクソもミソも同じにしてませんかね。

そうやって差別をするから,日本に住んでいることに対する在日コリアン自体の意識にいつまでたっても「経済活動」だけを植え付けてしまうのではないか。逆に「反日」を助長しているのではないか。地方自治という地域社会生活に密着した政治レベルでは,税金を納める「住民」を対等に扱うほうが,地域社会が強化されると私は思う。「どうせ言っても聞いてもらえない。ならば,できる範囲で自分のことだけ考えて日本人を見返してやる」という状況を「自分の意見を聞いてもらえるのなら,他人(日本人)の意見も尊重し,自分も他人もうまくゆくようにしよう」という方向に向かわせるように,この法案は働く — 私はそのほうにより希望を見出す。

安全保障や外交は,地域社会における身近な生活の遥か上方に位置する,高度な政治レベルである。日本国籍を持たない者に国政への参政権を与えることには,もちろん私も「日本国民として」絶対反対である。それこそ「売国的」政策である。平野官房長官は国政と地方自治のレベル・役割の違いをきちんと理解している。だから名護市長選の結果(地方自治)と普天間基地問題(国家の政策)とを切り離して議論できるのである。