脱官僚

民主党が脱官僚,「官僚依存から国民への大政奉還」などと言いながら,各省庁に「答弁メモ」作成を指示していたとの記事を読んだ(『『答弁メモは事務的慣例』 官房長官,撤回示唆』)。

官僚からブリーフィングや原稿草案を受けるのは国政に携わる政治家にとって当たり前である。それをいちいち原則に反しているとしかつめらしく話題にするのは,頭が悪いのではないかと思ってしまう。私だって,小規模集団プロジェクトの運営においてすら,手を動かしている部下の報告を受けてものごとを判断する。部下がきちんと事実を伝えているか,道をはずしていないかチェックするのは当然である。脱官僚の本質は官僚の言うがままの予算,なすがままの追認を排するということではないか。

これと同様に「官僚の天下り」についても,「杓子定規」が罷り通りはじめており,本来の問題意識が失われようとしている。この問題の源は,ポストにありつけなかった者のために,役所が必要性疑わしいポストをわざわざ外部団体に作って税金を流し込む官僚人生設計 — そんなムダが許されてよいものか,ということのはずである。もとより職業選択の自由があるわけだから,官僚もそのキャリアにものを言わせてより条件のよい仕事につく権利がある。「禁止」できる性質のものではない。志ある官僚が政治家,雇われ社長になろうとまったく問題がない。もちろん,税金で食っているわけだから税収が落ちれば,減給,リストラだってしようがないと思う。そういう一般的社会人のルールをきちんと適用すればよいのである。

官僚(9 時 5 時の時計に合わせて仕事をするような一部地方公務員のことじゃないよ,国家公務員上級文官・技官のことだよ)は国政実務のプロであり,政権に依存しない過去を唯一蓄積している集団である。もとより知力の優れた人材が集結しているのである。彼らを尊重すべきである。政治家は,きちんと彼らのプライドを認め,よく話を聞き,その上で自分の政策の実現に向かわせるしか方策はないのである。

なのに,郵政の新社長は官僚の天下りだとか,そもそも国務大臣自体が元官僚だらけだとか,無意味なからかいに明け暮れるマスコミは,まったくバカではないかと思ってしまう(産経新聞はその代表)。テレビ局は,NHK を除く民放大手はすべて,鳩山総理の首相所信表明演説のその時間,どうでもよい芸能人麻薬犯罪裁判に血道を上げていたのである。ノリピーの反省と決意は心からのものかどうかなんて,本人の問題ではないか。朝日は今日の夕刊で,ノリピーが介護に携わりたいとコメントしたのを巡って「介護を甘くみるな」という記事を掲載していた。そんなことノリピーの決意表明なのだから,本人の意思であって,他人にはわからないではないか。これがこの国の報道のレベルである。自由な国の自由な報道がどうなっているのか,というこの現実。皆,まったく同じ。共産主義国家以上に社会主義が浸透した珍しい国である。それなのに,中国や北朝鮮の自由なき報道を嗤っている。(私は海外のマスメディアを買収して日本の報道を日本で行わせるという事業があってもよいと思う)